位 置
西村山郡大江町の中心地左沢より、地方道大江西川線(27号)を西へ車で10分ほどのところです。月布(つきぬの)川にかかる顔好(かおよし)橋を通過し、そのあたりより南の方角、山間部に入る道路を上りますと、そこが材木(ざいもく)集落となります。
材木集落のさらに奥に「萩の山」という開拓集落があったとのことですが、かなり以前に全戸下山しています。
材木集落は、かって20数戸の時代もあったとのことですが、現在は半数になっています。
H20.5月9日。左沢のさきから見える大朝日岳。材木集落は、この最右端の山のかげ方向です。
H20.5月4日。下の集落から材木への道。このすぐ上が材木集落です。
歴 史
材木に大きな山城があったこと
朝日山系を源流とし、大江町西部の山間を流れる月布川の流域は、中世より軍事、経済あるいは信仰上の理由から早くから開発され、それに連動し、この地に山城が多く築かれています。
その遺構は、各所に現在も残されているところですが、材木にも「材木城」が築かれました。
別の見方をすると、材木集落は、材木城が築かれたことによりできた集落といえます。集落全体が山城の遺構のなかに存在し、私の家のところは「的場(まとば)」という地名ということです。弓矢の練習場だと集落の方から聞かされました。
では、この山城を築いたのは誰であったのか、調べてみますと(調べ方はまだ不十分ですが)、鎌倉幕府の政所別当にもなった大江一族が築いた城であることがわかりました。
大江一族は当時、置賜地域と寒河江荘(さがえのしょう)を地頭として領有していましたが、「承久の乱(1221年)」に後鳥羽上皇方に加担し敗退しました。
そのため、大江親広(ちかひろ)は幕府の目を逃れ、寒河江荘に隠れ住むことになります。
その後、寒河江荘は、広時―政広ー元顕(もとあき)と相続され、大江氏はここに土着し、西村山郡一円に勢力を拡大していきました。
この大江氏は、後年、中央における南北朝の勢力争いに巻き込まれ、南朝方に味方をし、そのため、北朝方幕府の命により山形に入部(1356年)した斯波氏により、1368年の「漆川の合戦(漆川は月布川の古名)」により、7代時茂(ときしげ)の時代に壊滅されています。
大江町は、大江氏の重要な拠点でもあったのですが、そのうち、「材木城」は5代元顕の弟、公広(きんひろ)という方が築城したものといわれています。
公広は号を「西目(さいもく)」と称していましたので、それがいつか、材木という地名に変化したのでないかという説です。
この材木城は、相当規模の山城であり、出城も有していたことがわかっています。構造や配置は後日、調べてみたいと思います。
材木は、今は人の少ない静かな集落ですが、往時は、たくさんの武士団がここに群居していたのでしょう。下からは、材木への道をたくさんの人々が物資をもって往来していたことでしょう。
そう思うと知らず胸が高鳴るのをおぼえます。
図説山形県の歴史 河出書房新社1996年刊。 大江町の歴史探訪 地名を探る 小関昌一著 大江町1999年刊、を参考にまとめました。
H20.5月9日。材木集落を上手からみたところ。左手杉林あたりが山城の中心と思われます。
私の家は中央に松がみえますがその方角の奥になります。遠景は村山葉山です。