所感・雑感


左ふくらはぎの筋肉を切断してしまいました。

 さる6月22日に、転作田の脇を流れる小水路を補修中、左ふくらはぎの筋肉を一部切断してしまいました。
この水路は、かなりの急勾配で転作田の脇を流れているのですが集落の雨水が入るため、いままで大雨のときはどこかで水路がふさがり、あふれた水が畑に流れ込むことが何回かありました。
 そのため、今回、梅雨の終わりの豪雨にそなえて、一人で川底をさらい、危険箇所に土のうを積んでいたのですが、いきなり左ふくらはぎにドンと石があたったような衝撃がありました。
 なんだろうかと思っているうちに、痛みがでてきて、これはおかしいと思ったときは、激痛で左足を地面につけられない状態になりました。材木からの帰りは女房から車を運転してもらい早々の帰宅となりました。
 その後も痛みが和らぐことがなく、翌日、お医者に行ったのですが、色々なところを圧しながら、何本かふくらはぎの線維が切れたですね、とのことでした。
アキレス腱とちがい、そのうちなおりますよ。そうですか。はい。アキレス腱と違い、そのうちに切れた筋肉がつながるのですよ、と非常に楽観的に説明され、それ以上の詳しい話を聞くのを忘れましたが、お医者の指示のとおり、しばらくは湿布薬と強めのホウタイを継続していました。
 その後、4日間は完全休養。そのあとは左足に負担のかからない農作業に入りましたが、「そのうちに」という言葉が気になりだしはじめました。
梅雨明けの夏山(登山)に行きたいからですね。
 改めてお医者に聞けないので、自分で「そのうちに」は30日だろうと勝手に思いこむことにしました。
そうしますと、梅雨明けまで1ケ月ありますので大丈夫でしょうし、8月に入ってから行けばなお、安全だということになります。
 実際は、7月末からお盆まで色々な方の訪問やら息子夫婦の帰省やらでとうとう行けませんでした。足のほうはすっかり大丈夫のようです。
山(登山)は8月末の豪雨で無理かもしれません。9月はじめになるかもしれません。それにしても年を感じさせる出来事でした。  H20.8

新聞に大きく材木の話が掲載されました。

 材木の夏の行事で7月下旬に屋外バーベキュー大会があります。私たち夫婦も毎年呼んでいただいているのですが、そのおり、区長さんから山形新聞から取材を受け、材木の由来や歴史をお話した由、8月3日の日曜版「地名伝説」欄に出るだろうとのことでした。
 それで、最長老の本家のお父さんに、雑談のなかで、草刈りで気になっていた草「青そ」のことを関連して尋ねました。まさしくその通りでした。
本家のお父さんも「青そ」のことも言えばよかったな、と言っていましたが、その新聞記事の一部は以下のとおりです。以前は二十数戸もあり、道路も以前は違うところにあったとも言っていました。実は私の家に至る道が、下の集落とをつなぐメインストリートだったということです。
 こういうことは憶えている人がいなくなると一緒に消滅してしまいますのでもったいない話です。  H20.8



この写真の見出しに「鎌倉後期に大江公広によって開かれた材木集落」と説明がありました。

郷里に帰省しました。

 お盆に新潟の実家に帰省しました。8月15日から17日までゆっくりしてきました。
8月上旬は猛暑の日々の連続でしたが、うって変わって14日以降は雨天の日が多く、気分的にもゆったりできました。退職者の特権でしょうか。
 実家には第二の職場を終了した兄が農業をしていますが、趣味やら色々な生きがいをみつけて生活を楽しんでいました。
兄の第二の職場だったのは高校時代の友人が勤務する会社で、一緒に2年を過ごし、それが縁で今も私の友人との付き合いがあるとか、最近も寺泊、柏崎の海が近いので一緒にサザエを採りに行ったとか、そんな話しを聞き自分ももう少し余裕をもって生きてみようかと思った次第です。海の近いのはいい。休みもきちんと取ったほうがいいですね。

  朝日と巴が丘
 帰省したら、いつも行くのですが実家のすぐ裏はなだらかな丘で、現在、中学校や公園にもなっていますが、一帯は「巴が丘(ともえがおか)」といわれ、もとても見晴らしのよいところです。
 子どもの頃は桜の名所で近郷近在からたくさんの花見客でにぎわったのを憶えておりますし、冬はスキーで楽しんだところです。今は、道路が切られて、当時の景色はだいぶなくなりましたが、統合前の小学校の校歌にも歌われた景色のよいところです。
 そのふもとに「朝日」集落というところがあります。
皆様には「朝日山酒造」のあるところといったほうがわかりやすいかもしれません。あの久保田や千寿、万寿といった銘柄(もちろん朝日山も)で全国的にも有名な酒造会社です。わたしの同級生が社長さんです。
 この朝日と巴でピンとくる方はかなり歴史に詳しい方と思います。
朝日は「朝日将軍木曽義仲」のこと、木曽義仲は朝日将軍と称していたそうです。その朝日です。
 巴は木曽義仲の奥様の「巴御前」のことです。
京にせめぼった木曽義仲ですが、やがて源頼朝の追討をうけ、近江の粟津で討ち死にをします。
 そのとき、巴にそなたは女ならばどこかにおちのびよ、と言って別れたとのことですが、それから巴御前の消息はきえます。
言い伝えでは、のがれて、この地に住んだということです。そのため、巴が丘といわれるようになったとか、朝日寺にその由来が伝わっています。
 郷里の地名ながら、とても興味深いことです。
この巴が丘のさらに上辺は越路丘陵とよばれ、天然ガス採掘で毎年毎年新たな掘削井ができてにぎやかです。  H20.8

 一昨日、市立図書館から借りた春風亭柳昇さんの落語(CD)を聴いていたらこんな俳句が紹介されていました。NHKのお達者クラブだそうです。 
    しなのがわ  雪のこしじを  まっぷたつ     H21.3

私の郷里
 巴が丘(モミジ公園)よりの展望です。遠景は東山丘陵です。その彼方は栃尾、会津方面となります。
                    月見草が咲いていました。

熊出没注意の看板がでました。

 朝日山系の山登りに行くと、ふもとや登山道に「熊出没注意」の看板をみることがありますが、8月21日、当集落2ケ所に熊出没注意の看板が掲げられました。
集落のどなたかが熊を見たのでしょうか。
 2,3年前に私の山の栗が全滅するなど確かに熊がいたのですが、昨年は話を聞かなかったので、今年こそ栗のシーズンに合わせ山の刈り払いをしようかと思っていた矢先でドキッとしました。
 車で通過する分には、なんともないでしょうが、ここでひとりで畑仕事をする時なぞ、とても心配になります。
今年も、山のあちこちでおいしいりんごがなるのでしょうが、やはり、それに見向きもせず、雑木や下草の生い茂る私の山にはいって栗を食べるのでしょうか。
                                                                        H20.8

                集落への道路と集落の入り口に掲げられた看板。思わず胸騒ぎがします。


登山にいってきました。

その1
 大朝日岳
心配した左足ふくらはぎは大丈夫でした。


 9月10日から11日にかけて大朝日岳に行ってきました。まずは地元の山からということです。
8月中に行きたかったのですが秋作物の種まきやら、8月下旬は雨降りで今回の中途半端な季節の山行となってしまいました。
 この山は、何回も行っているのですが、このたびは家から最も近いコースを選択し、大朝日鉱泉~鳥原山~小朝日岳~大朝日岳(大朝日岳避難小屋泊)~平岩山~御影森山~朝日鉱泉となりました。
 写真を撮りながらでもあったのですが、朝日鉱泉から鳥原山まではコースタイムを1時間ほどオーバーしてしまいました。あとから気付いてびっくりしました。
また、翌日の大朝日岳から平岩山まではコースタイム30分のところ1時間もかかってしまいました。何かの間違いでないか古い記録を確認しているところです。
 ここは(朝日山系は)、総じてコースタイムが厳しいといわれているのですが、ま、大事をとってゆっくりのペースだったのだと自分に言い聞かせています。すこし、ショックでした。
 山は、あと10日もしたら霜がおりると管理人がいっていましたが、夏でも秋でもない山でした。
紅葉のシーズンは小屋からはみ出るくらい人が来ますが、今回はゆったり泊まれました。千葉からきた若い方が1名、他は自分を含めて年配者のみでした。
下山の翌日からももが痛くなりました。それ以外は異常もなくホッとしているところです。   H20.11
 
  * 村山葉山登山のため、新しい地図(メインが朝日連峰。付録に村山葉山など)を購入しましたら、コースタイムが訂正になっていました。
   鳥原山までは1時間20分がプラスされて4時間となっていました。従ってコースタイムより20分早かったことになります。Iam a タフですね。
   また、平岩山までのコースタイムは1時間と訂正してありました。(20年11月)

大朝日岳山頂からの遠景
 なだらかな尾根が延々と続きます。最奥が以東岳です。
その山はまだ行っていないです。これからの楽しみです。
朝日岳望遠
 御影森山手前の大沢峰あたりからの撮影です。稜線の右端は小朝日岳となります。中央の尾根が中ツル尾根です。

その2
白馬岳
ペンタックス645が重たかったです。


 10月2日から4日にかけて、白馬岳に行ってきました。2年前のリベンジ。
コースは、結果的に2年前と同じ蓮華温泉~白馬大池(白馬大池山荘泊)~小蓮華岳~三国境~白馬岳~白馬大雪渓~猿倉山荘となりました。
 当初計画では、白馬岳山荘にさらに一泊、時間があるので杓子岳あたりをあそび、その翌日は雪倉岳をへて朝日岳、朝日小屋泊、そしてイブリ尾根を北又に下山する3泊の計画でした。
 それを白馬大池山荘で変更し、そのようになったものです。白馬大池山荘から衛星電話で朝日小屋にキャンセルを入れました。(朝日小屋は予約制)
朝日小屋のオバアチャン(おかあさん?)がかなり寒くなったから防寒具を準備して気をつけていらっしゃい、と親切にいってくれたのに申し訳ないです。
 最終日の天気予報が曇りのち雨であり、冷たい雨の中の下山はいやだと思ったからでした。
翌日は予定通り晴れ。2年前に教えてもらった撮影ポイントでゆっくり写真を撮ることができました。
 先ほど、リベンジといいましたが、2年前の夏、突如ここで645が故障し、シャッターが落ちなくなってしまったのでした。本体と電池部分の接触が悪くなったのが原因でした。(メーカーの診断)
 結局はあきらめるしかなく、以後、ザックからカメラを出すことなく、山頂をふみ、すごすご白馬大雪渓を降りるだけでした。その時のザックの重たかったこと、今でも覚えています。
そのリベンジの今回の山行きでしたが、今回もザックが重たくなってしまいました。
 写真はとりあえず撮れたのですが、今度は雪倉岳がひっかかってしまいました。
同泊の年輩の方(オジイチャン?)と三国境で別れたのでしたが、足は遅いがなんとか今日中にはつくだろうと言っていました。そして、後姿を雪倉岳方面の素晴らしい景色の中に見送りましたが、あの時、オレはキャンセルでなく、一日早く行くからといえばよかった、とつくづく思いました。
 白馬岳山頂にはとりあえずいっているのですから。
こういうときはザックが重たくなってしまいます。
 そして、弱り目にたたり目で、大雪渓で大変危険な目に逢いました。
ガスが発生し、先が見通せなくなりました。完全にルート間違えて岩だらけの垂直に落ちる激流を横切ったり、戻ったり、迂回路と思い踏み跡が残る斜面を登ったり、やはり間違ったと下ったり、心臓がバクバクしどおしの異常事態でした。
 ようやく間違ったなりにルートを戻したら、今度は急斜面の雪渓に紅ガラでつけられたルートがクレパスで途絶えているではありませんか。これも迂回路があるはずなのですが、雪渓の上面を流れる水で流されています。それに立ち止まって振り向いても誰もいません。
 もう覚悟を決めて降りるしかないと降りたのですが、よく降りられたものと今でも思っています。白馬尻についたときは心身ともへとへとになっていました。
大糸線で糸魚川駅についたのは夜7時30分です。もはや、車を運転する気力なし、駅の近くのホテルに一泊しました。
 翌日は、海を見ながらということで、日本海にそって車を走らせ、能生の鮮魚市場では、魚やイカを買い、実家にもよらず一路山形に戻りました。
帰ってから、もはや自分にはペンタックス645は無理なのかとも思い始めました。三脚も持って行きましたのでかなり重たかったこともありますが。  H20.11

白馬岳遠景
 小蓮華岳手前(かなり)からの撮影です。ここからの白馬岳が気に入っています。遠くは鹿島槍ですね。
三国境付近
 ここが雪倉岳への分岐点となります。
写真中の人が同泊のオジイチャン。
 体調が悪かったのか前夜、夕飯をパスしたのですが元気でした。
きょうは朝日小屋泊だそうです。
 一緒に行けばよかったとつくづく思っています。

その3
尾瀬
34年ぶりです。やはり645を持っていきました。


 10月15日から17日にかけて尾瀬に行ってきました。実に34年ぶりです。
白馬岳では心身とも痛みましたので、軽いところと考えていたら、2年前、秋の会津駒に行ったことを思い出しました。夜、桧枝岐の役場の駐車場で泊をしていたら夜中に何台も車が通り過ぎるのですね。
駒の小屋の管理人に聞いたら、あれは尾瀬に行くのだろうとのことでした。近くにそんなよいところがあったのですね。
 34年前は、職場の先輩と文化の日の遅い時期に行ったのでした。
コースは富士見峠~長蔵小屋(泊)~燧ガ岳~見晴~山の鼻小屋(泊)~鳩待峠です。両日とも快晴で、しかも燧ではブロッケン現象に出会うという幸運にも巡り合いました。
今回は、沼山峠~尾瀬沼東岸~見晴~竜宮小屋(泊)~中田代~下田代~見晴~尾瀬沼東岸~沼山峠です。 
 前夜は御池ロッジの駐車場で泊をしましたが朝方は冷え込み、車のフロントガラスはびっしり氷が張りつきました。
5時半の沼山峠行きのバスに乗りましたが、4名しかいませんでした。さすがの尾瀬もこの程度かとびっくりしました。
 尾瀬沼におりると霜ともやの真っ白な風景でした。人も見当たらず、すばらしい風景です。
沼尻から見晴までは初めてのコースでしたが、終盤の紅葉を見ながら楽しく歩きました。燧が手の届くところにあって、また。登ろうと思った次第です。
 竜宮小屋では、バスで一緒だった方と同部屋でした。若い方で、茨城からきたといっていました。何回も来ているようで、尾瀬も鹿が増えて困っているという話をしていました。日光あたりから越境してくるのだそうです。そういえば聞きなれない鳴き声を先ほど聞いたばかりです。
 翌日も霜ともやで草紅葉が幻想的でした。竜宮小屋付近は撮影ポイントがたくさんあるのだそうです。同部屋のオジイチャン(よくオジイチャンに会います)は夜遅くまで写真を撮り、翌朝5時にはいませんでした。カメラ2台と重そうな三脚を持っていましたですね。
 注意してみますと尾瀬では、歩く人の二人か三人に一人は三脚を持っていたようです。他の山では見られない光景です。
下田代からの至仏山も素晴らしかったです。白馬のいやな気持も晴れるようです。
 帰路、東岸から沼山峠間でお昼となりましたが、その間、革靴やらとがった靴やら手にバックの軽装集団と数回すれ違いました。尾瀬沼までどのくらい下りるのかと聞いてきましたが、まだまだとそっけなく答えておきました。帰りは、ここは逆に長い登りとなりますので、ひいひいいうことを切に祈りました。この年になっても意地が悪いです。  H20.11

早朝の尾瀬東岸
 中央の3本のカラマツがポイントなんだそうです。小屋も見えます。
もう少し、丁寧に撮ればよかったと反省しています。
燧ガ岳遠望
 おなじみの光景です。34年前と全く変わりませんでした。

その4
村山葉山
 この山も34年ぶりです。11月11日に今年最後の山と思い行ってきました。


 この山は山形市内から材木集落に通うときいつも見ており、いつかはと思っていたのですが、天気の良い日がありましたので至急前日の夜に支度をし、朝の4時に出発しました。
 コースは寒河江市畑集落跡~聖仏平~小僧森、大僧森~山頂(奥の院)です。5時40分ごろ東方面が明るくなりましたが登山口は霜で真っ白。かなり寒く最初は防寒具をつけて歩きました。
 平日のことですし、ローカルな山ですので誰もいません。ま、いるほうが不思議というものでしょう。しかし、熊はいるかもしれませんので鈴をつけて歩きました。
音のするのはその鈴と落ち葉を踏む音のみです。
 初めてのコースはやはり緊張します。尾根に出るまでの2時間、立ち止まると音が消えて、自分まで消えてしまいそうななんともいえない世界でした。
尾根に出ると寒風が吹いており、冬一歩手前を感じました。
 山頂(奥の院)ではおにぎりと熱いお茶を飲み、景色を見ながら40分ほどいました。時々、だれか来ないかと思って立ち上がるのですが山之内コースや肘折コース、十部一コースなど誰も来なかったですね。
 下山途中、大僧森あたりで奥の院を振り返りましたら、一人いるのが見えました。肘折コースから来たのかもしれません。
さらに下がったところで、年配の3人連れに会いました。キツネにあったような不思議な気持がしました。午前中に山が完了しました。  H20.12

 大僧森あたりから見える山頂方面です。
左手にポツンと見えるのが「奥の院(小さな社があります)」です。
 山頂はその手前のピークです。奥の院からの見晴らしが勝ります。中央にうっすらとみえる山は鳥海山です。山頂は雪です。
 34年前は右手方面の尾根、山之内コースから友人と登りました。
 奥の院からみえる月山です。
山頂の雪がかなり広がっていました。上空を雲が飛んで行きます。
 このあと、下界のほうから雲がわいてきて、たちまち山腹の景色を隠してしまいました。
 朝日山系はちょっと見えたのですが写真を撮る前に見えなくなってしまいました。


定額給付金と転作交付金について、ごまめの歯ぎしりです。


 今国会で定額給付金の議論が終結したようですが、国会議員の先生たちは、ついこの間、といっても平成13年のことですが、ときの首相が所信表明演説で「越後長岡藩の米百俵の故事」を引用し、感銘の演説をしたのをすっかり忘れてしまっているのでしょうか。
 いま、百俵の米を皆に分け与えても3、4日分しか腹を満たさない、それより、これを資金に学校をつくれば、将来には千俵、万俵にもなる。明日のために人づくりを、という高邁な米百俵の精神にふれたものなのですが、憶えておれば、こんな定額給付金の話は出てこなかったでしょう。
 何万円か各家庭に配るわけですが、使ってしまえば終わりですね。本当に使ってしまえば終わり、何も残りません。
2兆円もあるのですから、教育を充実するとか、若い人のためにとか、やることがいっぱいあるのに、消費にまわせとは何事だと、私は怒っていますね。
 私も米百俵で創設された学校、長岡高校出身のはしくれとして、そう思うのであります。
 
 農家における転作奨励金、今はとも補償交付金というのですが、これも各農家に配らないで、まとめて使えばれば大きなお金になるのでしょう。
しかも、30年以上も交付し続けているわけですから累計すれば非常に大きい金額です。
 ある意味、定額給付金と同じようなものですね。

 私の尊敬する人で、このように言った人がいます。若者を過疎の農山村に一人では駄目だが、二人送り込めばその農山村は驚くほど活性化するだろうと。まったくそのとおりですね。
 そのような山間過疎にきてくれる人の生活保障に長期的視点でにドンと支出すれば生きた金になるだろうに、といつも思っています。
 去年の12月、私はとも補償交付金をン万円、国からいただきましたが、すぐに使わずに貯めていたら結構なお金になったことだろうと、反省しています。 H 21.2


米百俵の話しのついでにもうひとつです。

 私がまだ若いときのことですが、
仕事の関係の懇親会に出席した時のことですが、ある人が酒を飲みながら言うのですね、いやぁ、去年まで会津若松にいたのだけれど、歓迎会の席でえらい失敗をしましてですね、というのです。
 酒席が盛り上がってきたとき、少し言葉のアクセントが違ったからでしょうか、あなたはどこの出身だと尋ねられたというのです。
 そのひとは異郷で郷里のことを聞かれれば嬉しいですね、うれしくて鹿児島県、薩摩の出身といったということです。
 そしたら、それを聞いたまわりの人がたちまちに寄ってきて、口々にこの会津で薩摩がいかに無法のことをやったか、それから、その話を延々と、コテンパンにやられたというのですね。
 百年も昔の話を持ち出されてしょげてしまったというのです。

私はそれを聞いてすっかりうれしくなりましたですね。
 つい、私も言ってしまいました。
それはそうでしょう。やられたほうは忘れないですよ。私は越後の長岡の出身だけど、長州は大嫌いですね。あんな、やらなくてもいい戦争をやらせられたのだから。河井継之助は無念でしたよ、と。
 そしたら、ああ、という言葉しか返ってきませんでしたが、また、やられたと思ったのでしょう。少し気の毒なことをしてしまいました。

 最近、「米百俵―その先の未来へ―」(財)長岡市米百俵財団刊行を読んでいましたら、こんなことが紹介されていました。
日本に特殊な町が4つあると。
 会津、長岡、太宰府、倉敷というのですね。どうしてそうなのか、理由が付してありませんでしたが、会津、長岡はわかる気がします。
そこに住んでいると気がつかないでしょうが、よそから来た人や周囲から見ている人にはビリッとくるのでしょう。精神的な風土ですね。
 私は山形に住んでいますがそれを誇りにしています。

 ついでに、「白洲次郎 占領を背負った男」北康利著講談社刊のなかにも面白いことがかいてありました。
それは、白洲次郎が東北電力会長のとき、奥様とともに只見川ダム竣工式(昭和29年)に秩父宮妃殿下をお迎えしたときのこと、奥様の正子さんは妃殿下と学習院時代の大の親友という間柄にも関わらず、そこでは小さくなっていたというのです。
 奥様が樺山資紀伯爵の孫、明治の薩摩閥の重鎮の孫に当たるからと書いてありましたが、よく気づかれたということでしょう。会津の気風は連綿と流れているのですね。

 番外に、外から見た新潟気風をひとつを紹介させていただきます。
私と同年代の福島出身の友人が言っていたことですが、その友人は、新潟と山形を仕事で行ったり来たりしていたのですが、彼がいうには、普通、自分の生れたところは、謙遜して、いいや、けっしていいところじゃありませんよ、とかいうのだけれど、新潟のひとは、謙遜どころかオレが生まれたところは日本一だというのだそうです。
 それを、真顔で言うから驚いたというのですね。
わたしも思い当たるところがちょっとあります。なぜだかわかりませんが。 H21.2


白洲次郎さんのことでこんな話を聞きました。

 山形市内にゴトウ靴屋さんという方がおいでになりますが、私は30年来、登山靴を作ってもらったり、修理してもらったり、子どもや私のチロリアンシューズを作ってもらったり、ザックを直してもらったり懇意にさせていただいているのですが、話しが好きで行くと半日も話をしているのですが、4、5年前にこんな話を聞きました。
 この靴屋さんが靴屋になりたての17、8の時に、ですから50年も前のことでしょうか、お客さんからスキー靴の注文を受けたのだそうです。
そのお客さんが言うには、滑っていても雪が入らないスキー靴を、ということだったのだそうです。

 そういう話は歴史を感じますね。スキー靴を町の靴屋さんでつくるのですね。それから50年前といえば、私らが小学校何年生のころで、長靴でスキーを滑っていたころでしょう。長靴の中に雪が入って、ぐちゃぐちゃにとけて足が冷たくてしょうがないのに、それでもやめずに滑っていたころのことですね。
 その若い時の靴屋さん、研究熱心だったから、実際に滑ってみなければわからないということで、色々、スキー靴をもって蔵王のスキー場に日参して、実際に滑って試したというのです。これもえらいですね。
 
 あるとき、ゲレンデに見慣れない中年の男がいることに気づいたというのです。
背が素晴らしく高くて、一見してなにかが違うような存在感があったということです。
 それがいくたびに出会ったというのですね。
一体誰だろうと思ったということなのですが、17、8の小僧っ子だったし、チラッと見るだけで終わってしまい、50年たって、はじめて白洲次郎ということに気づいたということでした。
 イトーさん、素晴らしく背が高くて、オーラが出ていましたよ。あれが白洲次郎だったんですね、と感動的に何回も言っていました。

 どうしてこの靴屋さんが白洲次郎に行き着いたのか聞きませんでしたが、そのころ、北康利の「白洲次郎占領を背負った男」が刊行になったころであり、山形新聞に蔵王の白洲次郎の別荘のことが掲載されたりして、白洲次郎のことが語られ始めたころでしたので、それで気づいたのでしょう。
 遊びに行った靴屋さんから、いきなり、イトーさん、白洲次郎知っていますか、と言われたときはびっくりしました。
だから世の中、面白いのですね。
   先日、ある本屋さんにいったら、白洲次郎と白洲正子の書籍コーナーができていました。市立図書館にもそのコーナーがあります。  H21.2


20年分の確定申告が終わりました。

 3月9日に確定申告をしてきました。
勤めていたころと違って今年は十分時間があると思っていましたが予想以上に時間がかかってしまいました。
 あるべき書類も探せなくて冷や汗をかいてしまいました。
確定申告の参考書に「退職したまま再就職しなかった人は確定申告をすると税金がかえってくる」と解説してありましたが、かなりの金額、と私は思うのですが戻ってきそうです。素直にうれしいですね。
 農業収入は、前年の約3割の増加となりました。
同じ面積から収入が3割も増加したわけですが、それだけ農作物の面倒をみ、作物もそれに応えたということでしょうが、前年は勤務しながらの土日農家だったから比較しようがないところかも知れません。もっとも、現金にかえたのは女房の力でありますけれど。
 ところが、経費も増加して、収支ではン万円の赤字となりました。
私の場合は通勤農業ですのでガソリン代が随分かかりましたし軽トラックを春先に購入しましたので、それで経費が増えたということですね。
 
 前後して、天気も良かったので、春先の堆肥を頼みに顔見知りの畜産の農家に顔を出しましたら、イトーさんの場合はそれでよいのだけれど、オレ等の場合は皮肉をいわれるんだよナー、ということでした。
 専業農家の場合、経営が赤字だったらどうやって家族でメシをたべているんだネ、と云われるんだそうです。
そんなことをいわれても何年もこうやって生きているしネ、実はオレもこうやって生きているのが不思議なんだヨ、と半分冗談交じりに言われましたが、計算上では、青申ですから、奥様や家族に支払う専従者給与や減価償却費見合で生活費をやりくりしているということなのでしょう。
 ですが、そのくらいの大まかな頭でないと農業はやっていけないのかも知れません。 
おかげさまで、今年も良い堆肥をいただけることになりました。  H21.3



政治の話は危ないのですが。

 私の畏敬する人物に坂口安吾さんがおいでになりますが、ごく最近、本屋にいきましたら、「the 寂聴第3号(角川学芸出版)」という本が目にとまりました。
瀬戸内寂聴の責任編集の雑誌でしたが、大きな活字で堕落のススメとありました。
 堕落といえば堕落論でありましょうし、坂口安吾さんでしょう、そう思って手にとりましたらまさしく坂口安吾の「堕落論」でありました。
寂聴さんが第3回安吾賞を受賞したのを機に特集した本なのでした。
 このなかで寂聴さんは若い時堕落論を読んで強い衝撃をうけ、そして、作家になるきっかけになったと語っています。
私も大学時代、堕落論に強く影響を受けたものの一人であります。

 安吾さんは本当に人間通の人でした。
その人間通の目を通して敗戦後の日本をみ、これから人はどう生きるべきか、有名な冒頭の一節とともに何が真実であるかを切ないまでの愛情をもって説いています。
 是非、「堕落論」をお読みくださいますように。

 そのなかで、今回、ご紹介したいのは、日本の天皇制について述べた部分です。理由はあとで述べます。

 要約しますと、日本の天皇制は極めて日本的な政治的作品であること、なぜなら、それは天皇自身が生み出したものでなく、政治を行う側が生み出したものであるからと述べています。
 それはどういうことかと申しますと、統治者は「天皇の前にぬかづき、自分がぬかづくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令し、」政治をおこなってきたのであり、すなわち、オレは天皇に代わって皇帝になるつもりはないがそのかわりオレには天皇がバックにいるぞ、とか、これはオレが命令しているが実は天皇の命令でもあるのだとか、これは天皇の意向である、従って、人民はそれを体しなければいけないとか、あることないこと自分に都合のよいことを天皇の意志であるかのように錯覚させて政治を行ってきたというのであります。
 藤原氏もそうでしたし、軍部もそうだったと述べています。私が思うに明治維新の薩長もそうだったでしょう。
ですから、安吾さんはこうも言っています。「見たまえ、この戦争がそうでないか。実際天皇は知らないのだ。命令していないのだ。ただ軍人の意志である」と。
 
 そこで思いますに、現在起きている小沢問題ですが、似たようなこと、あるいは安吾さんが指摘した極めて日本的な部分があると私は思っています。
 私は小沢一郎氏の肩を持つ訳ではないのですが、新聞報道にゼネコンの公共工事仕切り役が、小沢代表側の意向を拝して工事を配分していた云々とありましたが、
おそらく、それは真実でなく、公共工事仕切り役が調停が難しくなると、苦しまぎれに小沢事務所がああいっている、こう言っている、こういう意向だ、とその名前を利用して配分したのではないかと思うのです。
 藤原氏が天皇の名を利用した如くにです。自分に力がない場合は、力のあるものの名前を利用すればはるかに楽でしょう。
 小沢一郎氏が知らなかったというのも一面は理解できます。小沢氏が検察に強弁しているのはその点もあったからではないでしょうか。勝手にオレの名前が使われたのだと。
 この問題がぐちゃぐちゃしてきたのは、双方の思惑と思い込み、あるいは勘違いが交差し、お金がからんできたあとのことでしょう。 

 私は、そういう形態は過去のものとの思いがあったのですが、いつの時代になっても姿をかえてあるのだな、と改めて感じ入った次第です。
やはり、権威に弱い国民性が原因しているからでしょうか。

 ところで、安吾さんは、私たちも同じようなこと(権威の利用や尊厳の強要)をしている、ただ、気づかないだけ、気づいても気づかないふりをしているだけと述べています。私もそう思います。いい加減、人のバカらしさに気づいたら、自分のバカらしさにも気づくことでしょうね。

 それにしても小沢さん、一旦、身をを引かれたほうがいいと思いますね。捲土重来ともいいますしね。それとも、日暮れて道遠しなのでしょうか。 H21.3



使い捨てのイノチ

 最近、農業新聞だけかと思っていましたら、朝日新聞やNHKラジオでも取り上げていましたので、ご存じの方もおいでになるかと思いますが、ミツバチの世界に異変が起こって、国内のミツバチが不足し、果樹農家やイチゴ、メロン農家は受粉作業に支障が出るとかで悲鳴を上げているとのことです。

 その異変とは、国内で使われるミツバチの大半の輸入先であるオーストラリアで発生したミツバチの伝染病のことであり、欧米で発生したミツバチの大量死や原因不明の群崩壊や突然の失踪であると報道されています。国内でもミツバチの大量死が見られると述べています。  

 わたしは、現役時代、ミツバチ飼育者とのお付き合いもあったことからこれらのことを考えてみますに、報道はごく表面的で、深く掘り下げていないことが不満です。
 そのひとつとして、果樹農家やイチゴ、メロン農家はミツバチをどのように考えているのか、どのように扱っているのかということにふれていないことです。
養蜂家、養蜂業者からみると果樹農家やイチゴ、メロン農家のミツバチはかわいそうで涙がでるでしょう。
 
 ミツバチ飼育者は、ポリネーション(果樹などの受粉作業)が終了するとさっさと、山の中に巣箱を移動します。
トチ、アカシヤ、キハダ、クリなどの蜜源となる花が咲き始めるからですが、その最大の理由は平場に巣箱を置いては、いつ農薬の被害にあうかわからないからです。
 一つの巣箱に8千匹とか1万匹以上のミツバチが女王蜂を中心に群れを構成しているのですが、農薬がかかると一発で全滅してしまいます。
ミツバチは農薬に全く弱いのです。ですから、農薬を頻繁に使用する果樹地帯はミツバチにとって危険地帯そのものなのです。

 最近は水田地帯でのカメムシ防除農薬がミツバチに強い毒性を示すことも明らかになっています。
現に岩手県等でトラブルが発生していますが、農薬使用者側とミツバチ飼育者側の見解が大きく食い違っていることが不幸のはじまりといえます。
 すなわち、ミツバチの飛行範囲(行動半径)を旧来のように1~2kmと判断するのか3~4kmとするのかということなのですが養蜂家、養蜂業者は蜜を求めて3~4kmは軽く飛ぶといいます。ある人は飛行範囲(行動半径)を5kmともいいます。
 農薬散布者はそんなにミツバチは飛ぶはずはないから、ここ(農薬散布地)は巣箱から3kmも離れているから、ミツバチが死んだのはオレの農薬のせいでないといいます。
 行政は特定はできないといいますし、やがてミツバチの大量死は原因不明のまま闇に葬られてしまいます。
養蜂家、養蜂業者は風の強さや風向きによっても、とんでもないところの農薬散布がミツバチに影響(大量死)するといいます。

 それほどにミツバチの世界と農薬は相いれない世界なのです。
そこで皆様は不思議に思われるでしょう。
 果樹農家やイチゴ、メロン農家が導入したミツバチは受粉作業後どうなるのだろうかと。
皆様の想像どおり、待ち受けているのは地獄でしょう。
 受粉作業さえ終了すれば、あとは不要の存在なのです。しかし、ミツバチは巣箱がそこにある限りそこから逃げられないのです。

 先ほど申しましたように、ミツバチ飼育者は農薬の害をおそれ山に入ります。
熊がでますけれど、農薬の比ではありません。
 冬や花の少ない季節とて、ミツバチ飼育者は砂糖水をミツバチのために準備したり、防寒対策に怠りはありません。
あるいは巣箱を暖かな地域に移動させたり、まこと、わが子を可愛がるようなものです。蜂蜜をつくってくれる大事なハチ達なのですから。
 果樹農家やイチゴ、メロン農家は、また、次のシーズンにミツバチを買えばいいやと思うでしょう。

 今回のミツバチ騒動のなかで、私はやりきれないものを感じます。
毎年、毎年大量のミツバチを輸入しなければいけないなんて、非常におかしなことです。そのおかしさに気付かなければいけないですね。
 古代から、乳と蜜がながれあふれる郷が人類の理想郷、ユートピアであるといいます、ミツバチが生きられない世界は人類にとって不幸なことでしょう。
ミツバチが住みやすいわが国であってほしいと切に願うものであります。  H21.4



みそ汁は鼻で吸う
 今年も5月19日に大江町内のこうじ屋さんに加工依頼していた味噌を受け取ってきました。ビニール袋6個、150キロ程度と思います。
こうじ屋さんに持ち込みましたのは大豆58キロ、精米64キロ、塩35キロです。ですからその程度でしょう。新たに貯蔵用のタルも購入しました。

 味噌をつくりはじめて(委託加工で)、10年ほどになります。
この材木の地で畑や転作田を手に入れて、最初に考えたことが大豆を栽培して味噌をつくることでした。
 その訳は、三十数年前の結婚当時にさかのぼるのですが、結婚してからどうも違うなと思ったことが二つありまして、そのひとつが、ご飯がおいしくないこと、
もう一つがみそ汁はこんな味だったのかなと思うことでした。
 ご飯がおいしくないことについて、女房に強い反論を受けました。
今、スーパーで売っている一番高いコメを買ってきているんだと。それをうまくないなんてアナタおかしいんじゃない、といわれました。
 それで、みそ汁もうまくない、と言えなくなってしまいました。

 そんなことで、市販の味噌のみそ汁の味になじんでしまった訳ですが、子どものころ食した純粋のみそ汁の味やあの大きな木のタルのなかで、
何年たったかわからないような液状になりかけた味噌、まさに味噌のエキスがしたたるような味噌を見て、みそ汁をのんできているわけですので
それが郷愁のようになっていました。
 あの頃のようなみそ汁がのみたいと。

 味噌のそのような状態を「未醤(みしょう)」というのだそうですが、それは後日知ったことです。
未醤とは、「いまだ醤(しょう)=醤油 にならず」という意味だそうですから、まさしくそのような状態の味噌だったのでしょう。

 それで毎年、味噌加工(委託で)をしているのですが、はじめて味噌をつくった時、熟成が待ちきれなくて2年早々でみそ汁に使いましたが、
そうだ、この味だと感動したことを覚えています。女房もはじめての経験のようでした。

 ところで、例のエキスがしたたるような深い味わいの味噌にまでたどり着き、食したのはいままで1回、それも半年間たらずのようです。
と、いいますのは、自分のためにつくった味噌なのですが、余裕があるからといって直売会で売りはじめたのが原因で、次第に好評になって、
それは、それで大変良かったのですが、お客様用を優先することが必要になり、肝心の自分のところは熟成期間の短いものしか回せないという状態に
なってしまったからでした。
 これではいけないと少しずつ大豆の栽培面積を増やしていますが、当分は、エキスがしたたるような味噌は自分でつくっていながら無理かもしれない、と
思っています。

 損得なしでいつか、そのような味噌をつくって売ってみたいですね。どのような反響がくるやら。

 川島四郎先生は「日本人の栄養学講座 続 食べ物さん、ありがとう(保健同人社刊)」のなかでみそ汁を礼賛しています。
関連した数行を以下に掲載しました。ほのかに漂ってくるみそ汁の香りはとても良いものです。みそ汁は鼻で吸うといっていますね。

 三年味噌はおいしい、というでしょう。なぜかというと、三年味噌には、「味・色・香り」の三拍子がそろっているからです。
 味噌は仕込んでから一年目に「味」、二年目に「色」、そして、三年かかって「香り」がでてくるのです。

 
それで、三年もかかって、やっとつくりあげた「香り」を最後のみそ汁をつくる場面で台無しにしないようにと述べています。
 煮詰めてはだめ。さっと、かきまぜるくらいでいい。煮詰めては三年もかかかってつくりあげた香りがとんでしまうというのですね。
私も女房どのに教えました。  H21.5

 (追)   ご飯がうまくなかったことについて、当時のコメ(流通)事情を考えると、そんなものだったのかも知れません。
     私が農家の出で、おいしいごはんの味を覚えていたことがまずかったのでしょう。
     今のコメはそんな心配はないようです。   



さくらんぼは水屋の富のこころもちです。
 昨年までの6月下旬は、畑(山辺の)の脇の桜桃の木から、熟れたさくらんぼを見つけては何粒かをひそかに食べて初夏の気分を楽しんでいましたが、
今年はさくらんぼの収穫が一段落するまで、心休まることはないようです。
 落語の「水屋の富」みたいなものでしょうか。心穏やかな日がありません。むしろ日ごと不安がふくれてくるようです。

 不安なことが二つあります。
その一つですが、6月はじめに、一人でハウスの屋根にビニールをかけ、オレは大したものだと思ったのですが、それは束の間、強い風が吹くとビニールが
バタバタとすごい音をたてて一部が風船のようにふくらんでしまいます。
 風の強い日に見て仰天しましたが、なんとかマーカー線で阻止されているところです。
ビニールの張りが弱かったのが原因のようですが、やはり素人仕事というところでしょう。
 天井部分はビニールが骨材にすれて、切れたところがあります。
いまさらどうしようもありませんので、収穫が終わるまで、強い風が吹かないように祈るばかりです。
 最近は夕刻に風が吹くことが多いのですが、風が吹くとビクビクものです。
でも、これは自分が悪いのですからあきらめもつきます。

 あきらめがつかないのが、さくらんぼの盗難です。
女房がしょっちゅう言うので心配性が伝染してしまいました。
 この収穫時期にさくらんぼの盗難事件が多発します。今年もどこかで盗まれたという報道がありました。
各地で、さくらんぼの盗難防止パトロールが始まっていますが、真夜中にやられるようです。あるいは明け方かも。
 自分の畑のものが盗まれないという保障はまったくありません。
一生懸命管理をして、最後に取られてしまったら悲惨ですね。
 さりといって、夜毎、おうとう畑に行くわけにもいきませんから、天に祈るしかありません。
それで、最近は毎日おうとう畑に顔を出しているわけですが、まず発する言葉は、アッ、大丈夫だった、です。

 すでに、女房はウキウキで、ホームセンターから、さくらんぼの箱をたくさん買ってきて、息子や親せきやらに送る準備をしています。
どうか、取られませんように、ですね。   H21.6



少しタイミングが悪いのですが。
 北海道の大雪山系(トムラウシ山、美瑛岳)で7月16日に痛ましい遭難事故が発生して、少しタイミングが悪く、このような話は申し訳ないのですが、
私は、今年6月に待望の山保険に入ることができました。
 昨年秋、宿泊した北ア白馬大池山荘から封書が届き、開けて見ますと山保険の案内でした。
今まで知らなかったのですが、平成18年の保険業法改正により新設された制度のいうことで、すぐ加入の手続きを行いました。
 山で遭難して、迷惑をかけたくないという思いが始終ありましたので、良かったと思います。
 捜索・救助に300万円の保険を付けることができました。これで万が一の場合の最小の責任を果たすことができたと思います。

 ところで、一昨日、10年程履いた登山靴の靴底の修理を思い切って製造元のメーカーに依頼しました。
 しかし、修理に40日ほどかかるということで、8月末にしか履けないことになりました。
そのため、20数年前にゴトー靴屋さんからつくってもらった、かなり重たい登山靴ですが、これを履いて今夏はいかざるを得ないようです。
 ゴトー靴屋曰く、軽い登山靴は最近の傾向であるけれど気をつけなくてはいけない、そのために足首のねんざとか足に関係する事故が多くなっている、
軽く歩きやすいからといって、気軽に履いているけれど、それは軽トラックに1トンとか2トンの荷物を乗せるようなもので無理がある、
やはり重い荷物(大きい山)には、それなりの車(登山靴)が必要なのだ、と。
 実に耳が痛かったのですが、本当のことでしょう。でも、この年になると体力がついていくかどうか、これは大きな不安です。
そのため、大きい山の前に軽い山で様子をみようと思っています。
 
 それにしても7月13日にみた映画「劒岳―点の記」は素晴らしかったです。映画であることを忘れてしまうほどでした。
山は晴れた日は限りなく美しく、荒れた日は生命の生存を否定する非情の世界、思えば、この極端な世界に人は魅了されるのだと改めて思いました。
 今年は、剣岳に登る登山客がたくさん増えるのではないかと思っています。私はそれが静まり返った後にいけるのなら行ってみたいと思います。
まだ残してあるのですね。
 それにしても、監督や役者さんのプロ意識には完全脱帽、敬意を表しています。   H21.7


たまねぎ、じゃがいも、にんじん
 今年は、農業新聞などによりますと、たまねぎ、じゃがいもは全国的に不作だそうです。にんじんはわかりません。

 我が家は、春先の肥料が良かったのか、玉ねぎの出来は「良」というところです。
といいますのは、女房が直売のたびに玉ねぎを持っていくのですが、みんなから良くできている、とほめらるということです。
ですから、そうなのでしょう。
 ところが、じゃがいもの(キタアカリ)は全くダメのようです。昨年の6割程度の収穫かもしれません。早生種なのに生育の初期から
良くありませんでしたので、あきらめてはいましたのですが。
 しかし、晩生種の紫と赤のじゃがいも(シャドークイーン、ノーザンルビー)は、まだ掘り上げていませんが、茎葉はしっかりしていますので、
これは期待できそうです。
 にんじんはまあまあのようです。家では時々引き抜いて食べていますが、今度、お盆前の直売に第1陣を掘り上げて持って行く予定です。
甘くて評判は良いですね。

 ところで以前、直売で平均的に良く売れるものはなんですかと、ある人に聞いたことがありますが、
返ってきた答えが「たまねぎ、じゃがいも、にんじん」でした
なんだ、オレもつくっているものだ、と思いましたが、その理由は単純で分かりやすかったです。
 カレーの材料ですね。
だから、年間を通じて平均的に売れるのだそうです。

 よその家庭ではどのくらいの割合かわかりませんが、我が家では10食分とか12食分とかまとめてつくって小分けにして冷凍し、
山(材木)に行くときの昼食になります。
 最近は女房がつくるのにまかせていますが、私が作るときは、たっぷりの玉ねぎとたっぷりのすりにんにくと生にんにくを使います。
女房はにんにくのカレーは嫌だといいますが、私は大変おいしいし、スタミナカレーと思っています。
 私は大学時代の5年間、自炊をしていたのですが、今は亡き友がうまいといって食べてくれたことを思い出しますね。

 ところで、知らないふりをして、女房に聞いたら、肉じゃがという答えでした。
これもいいですね。
 この肉じゃがも小分けにして冷凍してみたら面白いなと思っています。  H21.8



ふるさとは天地人で一色。
 ことしもまたお盆に実家(新潟県旧越路町)に行ってきました。
久しぶりの友人に会いたいのでゆっくり2泊してきました。
 2日目は時間がありましたので、女房の要請にこたえ急きょ、「天地人」ゆかりの地を訪ねてくることにしました。

 私はテレビを見ないほうなのでNHKの「天地人」はみておらず具合いが悪いのですが、そのかわり女房は大変な熱の入れようでテレビの前に正座をしてみていますから、それでつり合いがとれているようなものです。
 それがなんだという訳でもないのですが、そういうことで六日町(現南魚沼市)に行ってきました。
上田長尾家の本拠地、上杉景勝と直江兼続の生誕の地ですね。
 長岡から高速で約30分、実にびっくりしました。駅前から天地人、一色。その力の入れ具合、山形米沢の比ではないようです。
シャトルバスが行き来し、案内人、観光ボランテアの人たちが車の誘導はもとより史跡の説明、コースの案内等、汗びっしょりでがんばっていました。
 なんと、「愛・天地人博南魚沼特設会場」前では踊り(兼続ゆかりの?)も披露されていました。これもボランテアなのでしょう。
 そして、この特設会場は入館者がとても多く、すごかったです。もとはJA魚沼みなみの米倉庫だったそうで、急ごしらえなのだと思いますが、随分見ごたえもありました。
右の写真はその時の記念写真です。館内で写真を撮ってくれる係がいまして撮ってくれました。
 その後、坂戸山城跡にも行ってきましたが、一年に一辺の聞き分けの良い亭主をしました。

 ところで、この火坂雅志さんの「天地人」は、皆様ご存じのことと思いますので、
私は、坂口安吾さんの書いた安吾史譚「直江山城守」や黒田官兵衛(黒田如水)を描いた「二流の人」に登場する直江山城守を若干紹介したいと思います。直江山城守は直江兼続のことですね。

何と言っても師匠が師匠ですから。
 「教祖の謙信は仏門に帰して僧形で戦場へ現れるという一生不犯の戦争狂であるが、弟子の山城も、又弟子の幸村も、同じように正義をたて、勇みに勇んで戦争をやり、戦略をねるのが大好物の俗念のすくない人物であった。まったく欲得抜きなのだ。義を立てて、一肌ぬいで戦うのが好きなだけだ。そして、謙信と山城の生まれた国から山本元帥も生まれたのである。教祖謙信の流れをくむ最後の弟子かもしれない。(直江山城守より)」

直江状のハリキリ方が良く分かりますね。
「はっきり言うと、この男はただ家康が嫌いなのだ。昔から嫌いであった。それも骨の髄から嫌いだという深刻な性質のものでなく、なんとなく嫌いで時々からかってみたくなる性質の ― 彼は第一、骨の髄まで人を憎む男でなく、風流人で、通人で、その上に戦争狂であったわけだ。だから、家康が天下を取るなら、俺がひとつ横からとびだしてピンタをくらわせてやろうと大いに張切って内心の愉悦をおさえきれず、あれこれ用意をととのえて時の到るのを待っている。
彼の心事明快で、家康をやりこめて代わりに自分の主人を天下の覇者にしてやろうなどというケチな考えは毛頭いだいていなかった。(二流の人より)」

安吾さんの兼続評ですね。
 「彼の一生はハラン万丈というべきものであった。身は大名のただの家老でありながら関ヶ原の首謀者の一人であり、そして、その戦争に負けた。
しかし彼の一生はどこにもアクセクしたようなカゲリがなく、悠々としてせまらない。鉄のような「責任」の念が確立していなければ、こんな生き方はできるものではない。武人としてまことになつかしい人柄ではないか。
 謙信や幸村に似たハリキリ将軍は現れるが、山城のようななつかしい武人はめったに現れるものではない。(直江山城守より)」

 最後に、家康ですけれど、「山城に横っ面をひっぱたかれて腹を立てたが、憎む気持もなかった」そういうことらしいです。
なぜか、それは安吾史譚「直江山城守」をお読みください。

 安吾さんがいつでしたか「上杉謙信の巻 ー 越後守安吾将軍の奮戦記ー」の執筆取材に春日山を訪れ、そして山をおりた海辺の旅館でたまたま出されたバイ貝があまりにもおいしくて、大皿山盛り4枚を食べたと、そのなかに書いていましたが、
 私も坂戸山をおりて、久しぶりの友人宅を訪問しましたら、お土産にエゴをたくさんと午前中に採ったばかりの生きたサザエをたくさんいただきました。
なにか、とても幸福な気分になりました。U君ありがとうございました。 H21.8



メルセデス・ソーサさんが亡くなりました。2009年10月4日。74歳。
 10月6日の朝刊にメルセデス・ソーサさんの訃報が報じらました。大手3紙に出ていましたので気付かれた方もあったと思います。

 南米フォルクローレの最高の歌い手でした。
黒髪と褐色の肌を持つソーサさんは「ラ・ネグラ」の愛称で親しまれ、つねに民衆とともにあり、政治的な自由を求めて戦う姿勢から「声なき大衆の歌声」と呼ばれていました。報道によりますと、たくさんのブエノスアイレスの市民が遺体の安置された議会堂に弔問に訪れたということでした。
こころよりご冥福をお祈りします。
 ソーサさんは1960年頃より本格的な音楽活動に入り、特にNueva・cancion ヌエバ・カンシオン(新しい歌)と呼ばれる音楽活動に共鳴し、聴く者の心を揺り動かす情熱と気迫、そして力強い歌唱力で人々に勇気や生きる希望を与えてくれました。
 ある人はその力強い歌声に大地が歌っているようだと讃えました。

 私はソーサさんのレコードを一枚しか持っていないのですが今はそのレコードが私の宝物となりました。(Philips6347208 1977年にマドリードで作成されたと書いてあります)

 ソーサさんという人を私は1970年代に知っていたのですが、そしてその歌声が素晴らしいことも聞いていたのですが、当時、私はタンゴ(アルゼンチン)一筋で、そこまで食指が動かず、実際にソーサさんを聴いたのは15年も後のことだったと思います。このレコードだけは買っておいたのですね。

 ソーサさんのレコードを聴くきっかけとなりましたのはチリのビオレータ・パラという人を知ったからでした。
ソーサさんがそのビオレータ・パラのGracias a la vida(人生よ ありがとう)を歌っていたのですね。
 Gracias a la vidaを聴くならメルセデス・ソーサしかいないと誰もがいっていました。確かあるはずと買っておいただけのレコードにはじめて針をおとしてソーサさんの歌声を聴いたときは、なんでこんな素晴らしい歌声を今まで聴かなかったかと悔んだものでした。
そして、Gracias a la vidaの奥深い世界に感動したものでした。

 このレコードには「アルフォンシーナと海」も入っていまして、ソーサさんの代表的な名唱が聴けます。本当に宝物です。私は少し手遅れのようですがCDならまだ買えると思いますので、これから買ってたくさんの歌を聴いてみようと思っています。皆様も機会がありましたら是非お聴きくださいますよう。
 ある人は「メルセデス・ソーサの歌からはお金で買えない何か価値のあるものをたくさんもらったような気がする」と述べています。必ず心に響く何かが得られると確信します。
  それにしてもソーサさんは偉大な人だったのだな、とつくづく思いました。日本にもこのようにきちんと訃報が届くのですから。

  Gracias a la vida グラシアス・ア・ラ・ビダ(人生よ ありがとう)について
 Gracias a la vidaは1917年~1967年に生きたチリの女性歌手兼作詞・作曲家ビオレータ・パラさんの最高傑作です。
チリ各地をまわって民謡を集めるとともに、つねに貧しい人々の側に立って美しい作品を書き続け、民衆の声を高らかにうたいあげた方です。 
 この歌は世界中でスペイン語で書かれた最も美しい歌といわれ、いまもチリのみならず南米のたくさんの人々に愛され、誰もが空で歌える歌といわれています。
 
 しかしこの歌は、かりそめに皆様が思うようなこれまで生きてきたしあわせな人生に感謝するというような安易な歌でなく、ビオレータ・パラさんはその名声に反して、いつも周囲の無理解やねたみ、妨害そして生活の破たんと、いわわば人生のしあわせとは無縁のなかで生き、最後は50歳で力尽きてピストルで自らの命を絶つ、そんな人生を生きた方でしたが、その絶望のなか、それでも人生を肯定しようとするヒューマンな気持ちを持ちつづけ、この歌、Gracias a la vida (私の)人生よ ありがとうをつくったのでした。
  人生よありがとう,こんなに多くのものをくれて・・・・・。私はふたつの明星をもらった。それを開けば,黒いものと白いものとが,はっきり見分けられる。高い空にはその奥底に星がちりばめられていることも・・・・。大勢の人々の中にいる,私の愛する人の姿も・・・・。(略)   永田文夫訳詞

 パラさん死後のチリの軍事独裁政権下でも人々の希望の歌でした。この歌こそが南米に広がったNueva・cancion ヌエバ・カンシオン(新しい歌)の原点であったかもしれません。私はそんな背景に感動を覚えます。
 私もこれからどのような人生が送れるかわからないのですが、最後の時はGracias a la vida 私の人生よ ありがとうといって終わりにしたいと思っています。   H21.10
                                                          


やっと山に行ってきました。
 ことしはひょっとすると山(登山)に行かないで一年が終わってしまうのかと自分で自分を責めていましたがやっと行くことができました。10月15日~16日。
まずはホッとしています。
体調はいつも悪くなし、時間も好きな時にいつもある、そんな状態にありながらなぜか体(尻)が重たくなっていました。おそらく夏山に行ってないからです。
一度行ってしまえばあとは勢いがついて、それいけとなるのですが長期間行かないとどうもそうなるらしいです。

 修繕に出した靴も8月のお盆には新品になって戻ってきています。
これを履いての今回の山ですが行く先に迷ったら朝日連峰と思っていましたので迷うことはありません。ただ朝日のどこに行くかです。
 人ごとのように日暮沢~清太岩山~ユウフン山~竜門山~西朝日岳~大朝日岳(大朝日小屋泊)~小朝日岳~古寺山~ハナヌキ峠~日暮沢としました。

 一日目は、天気予報に大きな晴れマークがあったのですが登りはじめから雲がでてなにかおかしな空模様でした。
それが登るに従い上空を雲がおおい、竜門分岐では灰色の雲とどす黒い雲が入り乱れる大荒れの世界でした。どのような経過かわかりませんが前線が通過しているようでした。
 視界は全くなし、風は身を切るように冷たく、その後は、とにかく一刻も早く小屋に入ることだと足を急がせただけでした。
とはいえこの登山道は何回も歩いていますので、ここはああだこうだとそれなりに楽しみもしました。
金玉水で水を補給し3時半に大朝日小屋に到着しましたが、いつもは混雑する小屋も10数名の少なさでした。
 最後の一人が4時半ごろ到達し、夕食をつくりながら竜門の尾根で熊が下りているのを見た、オレはそれで何回も笛を吹いたといっていましたがみんな無反応でした。
寝ようとした矢先でそれ以上の話を聞くのが億劫だったのかもしれません。

 翌日は打って変って雲ひとつない秋晴れでした。心豊かに紅葉を見ながらゆっくり下山しました。
私はいつも山小屋の出発は最後のほうなのですが今回も最後でした。
 古寺山付近で仙台から来たという若い方にあいました。それで言葉をかわしましたら昨日は最高の天気で、窓から外ばかり見て仕事が手につかなかったといっていました。いや、実はきのう、山は大荒れだったといったらびっくりしていました。その後、何人かがポツポツ登ってきました。
 まずは私にとって宿題を果たしたような今回の登山でした。 H21.10

 長年履いている私の登山靴です。
手前が今回靴底を修繕(張り替え)してもらった靴です。
1万円ちょっとかかりました。中は損じていないので新品のようになりました。
 奥がゴトー靴屋から20数年前につくってもらった登山靴です。
 つくるとき足型をとるのは当然ですが、紐を強く締めるほうか、緩めにしめるほうかも聞いて配慮されてあります。
 見るとわかりますように靴底は何枚も皮を重ねてがっちりつくってあります。
 それで少し(かなり?)重たいです。
この靴で飯豊も北アも南アも行っているのですね。
 金玉水手前からの大朝日岳です。
3時頃、一瞬、ガスが切れてこの写真を撮ることができました。
 稜線に上がってからはじめてのシヤッターです。
例によってペンタックス645を持って行きました。
 この場所は誰もが撮る撮影ポイントでめずらしくもない構図なのですが、私はこれまで撮っていませんでしたので良かったと思っています。


















再びミツバチの話しで恐縮ですが。
 退職して以来、本は増やさないように(お金もないし)と、もっぱら図書館を利用しているのですが、新刊が少ないのが弱点です。
仕方がないので本屋から買おうと思っていた矢先さすが市立図書館、準備をしてくれました。今春、ミツバチ問題が起こったとき新聞に紹介されていた本です。

 本書はアメリカのローワン・ジェイコブセンという方が著した本で、原題に「実りなき秋」Fruitless Fallとあり、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を想起させます。
まこと、「沈黙の春」の現代版というべきもので、物言わぬミツバチから人類への警告書と思われます。

 ある日、突然ミツバチ(以下、ミツバチとは西洋ミツバチのことです。)が消えた。巣箱という巣箱を開けても働き蜂はいない。残されたのは女王蜂とそして大量のハチミツ。2007年春まで、北半球から四分の一のミツバチが消えた。(アメリカでは300億匹が失踪ないし死んだそうです。)

 このようなショッキングな書き出しで本書ははじまりますが、養蜂家にとっては信じられない光景だったでしょう。
科学者たちはこの奇病をColony Collapse Disorder「蜂群崩壊症候群」CCDと名付けましたが、その原因を必死に追及するも(寄生ダニ?携帯電話の電磁波?遺伝子組み換え作物?地球の温暖化?謎のウイルス?新たな農薬?)
謎は深まるばかりで、その果てに見えたきたものは人間社会そっくりのミツバチ社会とショッキングなアメリカ農業の実態でした。

 そのショッキングな農業とはカリフォルニア州のアーモンド栽培のことです。
その概要を述べます。
カリフォルニアのアーモンド栽培は2,800平方キロ(280,000ha)にも広がるということです。さらに、アーモンドはお金のなる木ということで、面積拡大が続いているということです。
 その面積は山形県では村山地域総面積(2,619平方キロ)より広く、東京都総面積(2,187平方キロ)を軽くこえる広さで、文字どおりアーモンド農園だけが延々と続く単純化した生物相の世界ということです。私には想像もつかないのですが。
 しかし、いくら儲かろうが面積が拡大しようが肝心のアーモンドの受粉はミツバチしかいない、そのため、2月のアーモンド開花期になるとアメリカ中のミツバチがかりだされるというのです。
 いえ、アーモンド農園主が支払う高いミツバチレンタル料に引き寄せられて、各地の養蜂家はミツバチを大型トレラーに載せて何千キロの道のりをカリフォルニアを目指すということです。その数、100万箱(群)。これも想像がつかないです。一群を1万匹として100億匹のミツバチです。
 
 しかし、後に述べますが養蜂家はこのカリフォルニアとカリフォルニア行きの過程で原因不明の大量のミツバチの失踪、死、群崩壊を発生させます。
しかし、ミツバチレンタルはやめることができないのだそうです。
 なぜかといいますと、本業のハチミツ生産による収入は、安価な中国産ハチミツにおされて減少し、逆にミツバチのレンタル収入のほうが上まわるというのです。レンタルをやめることは即廃業につながるということです。
(大規模経営によりコスト削減したアメリカ養蜂も中国ハチミツの安価にはかなわないのだそうです。大手食品会社の需要が高いそうです。日本と同じですね。)

 そのミツバチですが最近の遺伝子研究によりますと、もともと解毒と免疫能力は他の昆虫の半分しかないのだそうです。
すなわち非常に繊細な昆虫で、「種」が成立した南欧あたりで生きていたら問題はなかったものの、有用な昆虫として世界中に広がり、そのため、想定しないありとあらゆる病気(ウイルス)をひろったといわれています。くわえて、寄生ダニに対抗手段を持たないため(日本ミツバチやロシアミツバチはもっています。)壊滅的な被害を受けることがしばしばです。現在はミツバチ専用の薬剤で被害の軽減が図られていますが、そもそも寄生ダニのいない場所で生きてきたミツバチなのですね。
 
 そのうえ、アメリカではほとんどのミツバチがカリフォルニアに送られるという過酷な運命を背負ってしまいました。ミツバチにすれば環境の悪化でかろうじて生きているのにさらに生存条件が悪化したということでしょう。著者もこれがアメリカのCCDの原因といっているようです。

 それはどういうことか申しますと、養蜂家は2月のカリフォルニアに大量のミツバチ群を送り込むため、通常ならば半冬眠している12月や1月に暖かい場所に移動し、無理やり子育て等の活動を開始させ、これにたっぷりの人工の餌づけを行い群を急づくりします。
 そして、休む間もなく、これらの群を大型トレーラに乗せ、何千キロもゆすって(ミツバチは振動に弱く半死半生の状態になる)、アーモンド農園に送り込みます。
 ところがそのアーモンド農園にはほかから来たミツバチが何群も放たれていて、受粉が完了する3週間は超過密状態による採蜜、採花粉が繰り広げられるのです。農園側からみると隅から隅まで確実に受粉させるための必要措置ということです。
 これではミツバチにストレスがたまらないわけがなく、さらに悪いことに他の群との接触で予期しない寄生虫や伝染病をもらうことが多く、アーモンドの森からでてくるときは息も絶え絶えであるといいます。神経系統も錯乱しているでしょう。
 養蜂家もそれがわかっていますから、かわいそうだと思いながらも自嘲気味にカリフォルニアに送るミツバチをカミカゼビー(ミツバチ)といっています。生きて再び故郷に帰ることのできないハチ達という意味です。現在のアメリカはそんな使い捨てミツバチが充満状態でしょう。
 疲労とストレスのたまったハチ達は、病気や農薬に対する抵抗力が極端に落ちます。人間も同じことです。
養蜂家はそのため、人でいえば疲労回復の栄養ドリンクやサプリメントに相当するものをミツバチに与えはじめたということです。これも人間社会そっくりです。

 日本ではさいわいCCDの発生は聞きませんが、ネオニコチノイド系の農薬の被害があります。フランスでは養蜂家の要望により禁止された農薬ですね。
とにかくミツバチが全滅したら人類は終わりでしょう。他のハチ類や訪花昆虫もいますが、ミツバチほど上手で熱心な花粉媒介者はいないと思います。
 著者のいうように果樹は全く実をつけることができません。野菜も全滅でしょう。小麦やコメ、トウモロコシなどの穀類は風媒花植物ですから直接的な影響はないとはいえ、そのような冷え切った世界でうまく実をつけることができるかこれは疑問です。
  
 最後に著者の農業に対する意見です。
 このような事態に陥ったのは農場(農業)が現代的な経済システムに吸収されてしまったことにある。農業経営者がビジネスに聡くなるのは何も悪いことではないが、農場(農業)はほかの事業(企業)のように運営することはできない。
 企業は無限に成長を続けることを前提としている。もし、売上が横ばいだったら株主たちは会社を猛烈に批判するだろう。
けれど、生物システムの世界では無限の成長を続けるものなど存在しない。(略)
 また、農業は利益追求のためより多くの土地を集めるか同じ土地からより多くの収益を上げるかの二つをやってきたが、そのどちらも無限に続けられるわけではない。
 実に同感です。農業に行き過ぎた利益追求やコスト削減、合理性を求めるのは自然の理に反するのでないかと思います。ほどほどがいいのでしょう。 
 H21.11

 (追)  日本は4700人の養蜂家で17万群のミツバチの飼育だそうです。2003年現在。「ニホンミツバチの社会をさぐる 吉田忠晴著(玉川大学出版部刊 )より」
四季の花がたくさんあるのに少ないですね。でも農薬を散布しない土地をみつけるのは今の日本では難しいのでしょう。 H21.11


無駄なことなんか・・・
 秋の中ごろでしたか女房が直売会から帰ってきて何か変なことをいうので、忙しいから後でと、しばらく聞き流していたのですが最近になって何回もいうので、
わかったといいましたら私まで巻き込まれて農業共済新聞山形支局の取材(色々な農業の紹介)を受けるハメになってしまいました。

 最初は女房の直売のことを記事にするのでその承諾、つまり野菜を栽培している私のことも少しは出るのだろう、そのくらいはいいや、と思って
いたのですが全面的にこちらの部分が多くでる内容になってしまいました。
  私は現役時代、そういう仕事(農家の取材)をしたことがありますので多少の勝手はわかりますがまさか自分が取材されようとは思いませんでした。
でも若い女性の担当記者が雨降りの山の中まで来ていただき感謝しています。記事もうまくまとめてくれまして山形版に大きくでてしまいました。
どうも照れくさいですね。自分が自分でないような気がします。
 さっそくその日の夜、新聞を見た、と親戚から電話がかかってきて私は穴があったら入りたいそんな心境でした。女房は単純に大喜びでした。
その後、さらにその記事がコンパクトに編集されて全国版にもでました、と担当者記者からその新聞が送られてきました。
 おれも全国的な有名人?
ふとそんなことが頭をよぎりました。
 ま、そんなことはどうでもいいのですが、あのヤローあんなバカなことをやっている、恥ずかしいよな、と思った人のほうが多かったのではないかと思います。
それはそうでしょう。そもそも私は農業をしているという意識はハナからないのですから。農業とよべるのであれば呼んでくれというわけですね。
 それに、そういうことに関して、私はとっくに達観しているのですね。
 
 「人生に無駄なことなんかなにひとつない」ということわざ(警句?)に揺るぎのない確信を持っているからです。
  ロバート・アルトマン監督「今宵、フィッツジェラルド劇場で」にでてくるメリル・ストリープ演ずるジョンソン姉妹のセリフ。2006年度作品。

 なにか大事な意味合いや社会的に価値があるかを問われれば疑問ですが、それさえ別にすればなんら問題はない。
自分の生き方ですし、自分のためにですし、人のためでないからです。それに人生に無駄なことは何一つないのですから。  H21.12


あちらこちらイノチガケ

 この二月になるといつも思い出すことがあります。
それは在職のころお付き合いしていた養蜂家から聞いた話です。
 昔(今も)、この方は冬が来るとミツバチの越冬のため、山形から暖かい房総にミツバチの巣箱を移動させるのだそうです。

 昔は新幹線もありませんし交通機関も整備されていませんので、ミツバチの様子を見に行く時は何日も泊りがけで行ったのだそうです。
いまは、車があるので楽になったと言っていましたが、あるとき、これもだいぶ昔の話と思いますが知り合いの地元の人に
最近、ここも(房総も)農家にビニールハウスがずいぶん増えて、露地の菜の花栽培が少なくなってミツバチの世話がやりにくくなりましたと言ったそうです。
と、返ってきた答えが何ともいい難いものだったそうです。
「いや、それはお前たちがわるいのだ」と。
 
 話をまとめるとこういうことなんだそうです。
おれたちにビニールハウスなんか必要なかったと。露地で十分野菜が作れたから。ところが、山形(といったかどうか不明ですが)のほうから、この時期、いままで出荷がなかった野菜や花が市場にゴソッとでるようになった。ハウスをつくって野菜や花を栽培し始めたのだな。
 そのため、おれたちの野菜や花は市場で競合して値崩れをおこしてしまった。まさかそれで出荷をやめろとはいえないから、やむなくハウスをいれたのだと。
つまり、人より早い出荷は価格的に有利ですから、ここの人たちもそれじゃもっと早い出荷をと、ハウス栽培に切りかえたというのです。
  
 何という因果と思いました。
確かにそうだと思いました。当時(今も)、山形だけでなく東北地方どこも農業の経営改善や所得向上ということでビニールハウスの建設を奨励していましたですね。季節外でもハウスをつくれば野菜や花が栽培できると。儲けにもつながると。
 それがまわりまわって房総のビニールハウスとなったのですね。
そして、想像しますに房総がハウス栽培になったということで、どこかの地方も大騒ぎになったかもしれません。そしてそれが影響してまた別の地方でも・・・・。
 農業も生きるためには大変な世界です。イノチガケカモ知レマセン。
  
 ところで、二月は私が敬愛する坂口安吾さんの亡くなられた月に当たります。
正確には二月一七日が命日でそろそろ「安吾忌」を迎えることとなります。
 私はそういうところに、昨秋、市立図書館で面白い本をみつけましていまも楽しみに読んでいる本があります。
なんと、安吾さんが殺人事件に巻き込まれるという話しです。
 文壇に華々しくデビューした後の低迷期、京都の伏見稲荷の安宿でくすぶっていた頃出くわした紅屋酒造の殺人事件、空襲が激化するなか、蒲田区安方町で運命に従順であろうと爆弾と戯れていたさなかおきたやるせない殺人事件、そして戦後の超多忙の執筆の果てアドルム中毒で東大病院に入院するなかでおきたカラクリ屋敷の不思議な殺人事件、読んでいて安吾さん、本当に生きていたのですね、そんななつかしい感情を持ってしまいました。
 著書(野崎六助氏)も安吾さんが好きだったのでしょう。そうでもなければこんな本は書かないですね。そのなかの一冊が「安吾探偵控イノチガケ」ということです。
そうですね。安吾さんはよくいっていました。自分自身もそうだったのでしょう。色紙にも書いていましたね。あちらこちらイノチガケと。
 よい「安吾忌」になりそうです。
「アンゴ、すなわちマットウの人だが、このマットウの人は、人を狂わせる。(中上健次)」    H22.2
  




 時期遅れの
 退職してから2年も経つと、むしろ現役時代のことは思い出さない方が賢明だと思いますが、未だ手元に退職祝いの会でいただいた旅行券がありまして気になってしかたがありませんでした。
 それで2月半ばに女房に話しますと、もうブレーキが利かなくなって昨秋痛めた膝も治ったとか(本当は治っていないのですが)、そこは本質的には心やさしい亭主でありますから、それじゃ伊豆大島の息子夫婦の所に遊びに行こうということになりまして、3月はじめに2泊3日の旅行となりました。

 初日は伊東に1泊です。ごく最近、大島に高速船が出るようになりました。
ついでに、伊東と言えば安吾さんが東大病院退院後療養のため3年ほど滞在したところです。有名な伊東競輪事件の地でもありますし「カンゾー先生」の碑もあるとか、ついでに山を越えれば友達のところです。もうここしかないと思いました。
友達のところ(伊豆の国市)へはレンタカーを借りていってきました。
 亀石峠を越えて、下り終えるあたりから富士山が素晴らしく立派に見えました。
ここは手塚治虫の「陽だまりの樹」を思い出さないといけないでしょう。
 「ハリスはいつまでもいつまでも富士を眺め、それからおとなしく隊列に戻って行った。彼の心は圧倒され不機嫌さもけしとんでしまったのだ。」と、まさにその通り圧倒されるくらい高く大きく見えました。
 実にここの人たちはうらやましいものだと北国人はため息をつきました。
韮山はイチゴの産地とか、大変イチゴがおいしいかったです。W君、奥様ありがとうございました。大島への土産にも買って行きました。
 
 翌日の大島は雨の中でした。それでも息子夫婦は色々なところに案内をしてくれました。気をつかってくれたのですね。
ともあれ、行く先々で感じたのはこの3月の季節でも緑が濃いということでした。さすが温暖な気候の島ですね。
 さらに不思議な雰囲気を受けましたのは、海からの風が強いためか家々は木々の中に隠れるようにあり、道路はメイン道路を少し離れますと両側がツバキのうっそうとした生垣でおおわれ、全てが濃い緑の中につつまれていたからでしょう。でも現実的にはさぞかし車の運転は大変だろうと思いましたら、息子夫婦はその見通しの悪い狭い道路が気にならないようでした。    
 
 帰りの港も風雨の中でした。
晴れていればと、息子夫婦は云ってくれましたが今の時期の大島の気象ですから気になりません。それに元気な顔を見ただけで満足なのですから。
 でも、港で見送ってくれた三歳の娘が少し悲しげな顔をしていたのが胸を痛めました。前日はもう、うれしくてたまらないというように女房と遊びまわっていたのですがやはり別れがわかるのでしょう。 
 いえ、そうでなく、実はしんみりしたのは自分のほうだったかも知れません。娘はまた大島で元気に遊んでいることでしょう。まずは春になる前の夢のような旅行でした。   H22.3 


 岡田港からの帰りの船です。息子夫婦、あんこさんが送ってくれました。

       右上段の写真は「みかんの花咲く丘公園」からの風景です。下の街は宇佐美港です。大島が見えるというのですがきょうは見えませんでした。
         右下段の写真は亀石峠を越えて、韮山に入ったところからの富士山です。実物は圧倒的されるほど大きく高かったです。ハリス、ヒュースケン、伊武谷万二郎
も見たのでしょう



天地は仁ならず
 最近読んだ玄侑宗久さん(臨済宗僧侶。福島県三春町在在)の著書に出てくる言葉なのですが、思わず納得してしまいました。
 
 この言葉の出どころは老荘思想とのことです。
「仁」とはおもいやりとかいつくしみとかの意味があるようです。
 ですから、天地は仁ならずとは、天地は(人に対して)思いやりとかいつくしみをしない、という意味の言葉になります。つまり、人に対して
エコひいきはしないということで、あなたがいいことをした、悪いことをした、そういうことと自然現象は無関係だというのです。
 勿論、玄侑宗久さんは臨済宗の坊さんですからこの言葉を仏教的な意味に深めて説明します。すなわち、人の死はその人の人格とか功罪に
無関係で偶然であるというのです。
 それで私はこの言葉に納得しましたのは、
いまから、30数年前の話になりますが、私の父は60歳で死んでいます。当時でも死ぬには若かったと思います。
 その父ですが働くのが趣味みたいな人で、働くだけ働いて、この冬で出稼ぎをやめて少し楽をしたらと周囲の人が言うほど働いていました。
そして、本人もそうだな、と同意しかけた矢先、あっという間にガンで死んでしまいました。
 私は親父はなんでここで死ななければいけないのか、それもガンでと、当時、自問ばかりしていました。

 それで、今、この言葉に出会って、いまさらながらやっと父の死に納得しました。父だけでなく、みんながそうなのだと。
親父の生きた年を過ぎて、実に当たり前のことに私は気付いたようです。
 これと似たようなことが最近ありまして(身内の突然の死)、当然ながら女房は大変なショックを受けました。私と同じように毎日ぶつぶつ言って
いましたので、そのように言ったら、アナタは冷たいと言われました。真理は冷たいのです。
 
 それにしても、最近、著名な方が鬼籍に入られます。
4月9日に井上ひさしさんが亡くなられました。75歳。
 実は、私は井上ひさしさんに会っているのですね。20数年前のことですが井上さんの故郷、東置賜郡川西町で講演会(農協が会場)があったとき、
井上さんを会場に案内しましたのは何を隠そうこの私でした。
 2階の会場にどういうわけか井上さんが一人でひょこひょこ下から上がってくるのです。誰も気づきませんので私が演壇近くの講師席まで案内したと
いう訳です。当時、私は県(出先機関)と町、農協との連絡調整役をやっていたのでそこにいたのですね。
 講師がこのような扱いを受ければ多少なりとも腹を立てるのでしょうが、井上さんは全くその気配はありませんでした。
小柄で少し猫背で茶色のブレザーを着ていました。私に有難うといわれました。
 作家は気難しいと聞いていましたが井上さんはごく普通の井上さんでした。実は鬼才の人だったのですね。 H22.4 


ヤマヒコは
 このことはすでに忘却の彼方に行ってしまったことなのですが、実は、つい最近(でもないのですが)、久しぶりに、ホントにひさしぶりに
胃液のみならず胆汁まで吐くという強烈な経験をしてしまいました。
 決して船酔いを甘く見たわけでないのですが三度目の正直で、かくも船酔いがひどいものだということを思い知らされました。
若い時、酒を無茶飲みした以来ですね。
 実は3月から海で船釣りをやっていたのです。
昨年あたりから大学時代の友人と双方も退職した、ということで行ったり来たりしていたのですが、船釣りが趣味だというものですから、
それにおみやげにもらったカレイやイカがおいしかったものですから、今年から連れて行け、ということで3月からやっていたのですね。
 高価な竿も買いました。
最初はメバル釣りということでしたが、その時の海はかなりのシケで、船が大揺れでブランコをやっているような状態のなか、
なんとか船酔いもせず釣ることができたのですが、後から、あれくらいの波はそうはないから、(船酔いは)もう大丈夫だろう、と友人も言って
くれましたし自分も多少自信をもったものでした。もちろん、酔い止めの薬は忠告に従って服用していたのですが。
 その次は連休後半のカレイ釣り、これも多少気分が悪いな、くらいで終わったのですが釣果はいまいちで、5月末のリターンマッチ、
かなり釣れるらしいという情報で意気込んだのですが、開けてみれば無残というよりみじめな結果になってしまいました。
 波はおだやかでしたが船が釣り場につく間におかしくなって3匹釣ったのが限界。あとは吐きどおし、めまいもひどくなって目を閉じているしかなく、
青菜に塩状態でひたすら時の経つのを待つしかなしという塩梅でした。
 でも、そこは小さな乗合船(6人)、しかも友人と船長はなじみで、船長は気付くと私の竿を使ってカレイを釣っていてくれました。
なんと帰宅して数えたら35匹もカレイがクーラーに入っていました。船長には礼を言ってきましたが、手ぶらで返しちゃ悪いだろうということでした。
なんという有難いことでしょう。でも、3回目ですっかり自信をなくしてしまいました。

 それで山の好きなヤマヒコはその原因を考えたのですが、恐らくは間違いないだろうというところに到達しましたので
以下に私見を述べてみたいと思います。
原因
 朝の3時に県庁前集合だったので2時半ごろ、コンビニでおにぎりを3個購入し、腹ごしらえにこれを食べた。これが最大の原因。
 そして、これが5時乗船までに消化をせず胃袋にあり、船に揺れて激しいおう吐を誘引した。
真理は実に簡単なようです。
 登山の場合、朝早く食べますがせいぜい4時か5時。2時とか3時とかはないですね。
しかもその後、体をかなり動かしますので、体全体あるいは内臓も早く目覚めるのでしょう。
 といいますのは、ある本に書いてあったのですが、たしか胃も夜は休むとか。従って、夜(夜中)に食べたものはそのまま胃のなかに
あるのみで消化活動は朝までしないということでした。
 ですから2時半ころ食べたおにぎりは胃のなかにあっただけ、ということになります。
それで、もうひとつ。"この礼儀知らずが、 (アブドーラ・ザ・)ブッチャーでさえ、試合まえは腹の中をからっぽにしとくのに"、という場面が
あるマンガの一コマにあったのを思い出します。
 このセリフでこのマンガを思い出す人はかなりの達人と思いますがブッチャー、懐かしい名前ですね。
いえ、それはどうでもいいのですが大事な場面は胃のなかをカラしておくことでしょう。
 それで、また、海に行くのでしょうか。いえ、新緑がきれいな季節です。山にも行きたいですね。行けるかどうかわかりませんが。H22.6  


日本のいちばん長い日
 相変わらず市立図書館からポツポツ本を借りて読んでいますが半藤一利さんの「日本のいちばん長い日」は7月から2回ほど借り直しをして読んでいます。
この本は昭和40年に大宅壮一編として世に出たとのことです。
 情けないことですが今回、初めて読んで知りました。
今、手元にありますのは1995年に実際の著者半藤一利さんが補稿、加筆し再刊行した本です。
 すでに先刻ご承知の方には無用のことですがいかにして運命の8月15日を迎えたかを刻々と記述したものです

  読んで最も印象に残ったのは、よくぞここで間違いなく終戦に持ち込んだものだということです。必然ではなく奇跡に近いものを感じました。
なにしろ、原爆を落とされても、なお内閣改造を断行し、本土決戦に持ち込もうとする狂気の軍部が日本を支配していたからです。
 国体護持のため、死中に活を信じ、最後の一兵になるまでの徹底抗戦、そして、日本人なら軍の邪魔になるような行動は取らないであろう、
喜んで皇土死守の犠牲となるであろうという身勝手な軍人思考がありました。
 最後は阿南陸軍大臣の理性と昭和天皇の自分はいかになろうともという聖断によって救われたのだと思います。

 また、この過程で安吾さんが堕落論で指摘する情けないことがたびたびおこります。

 それはポツダム宣言受諾の可否が最高戦争指導会議でも決められず、結局は天皇の「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である」の一言で無条件降伏、戦争終結への道が決まったというありさまなのです。俗な言葉でいえば天皇にゲタを預けたということでしょう。
あれだけ天皇の名において戦争を続行しておきながら、兵を殺しておきながら最後まで天皇のせいにするみたいなものでしょう。

 それに、大元帥(天皇)の命令といえど間違っていると信じるときには、それを諌止(かんし)するのが真の忠節というものである、という不遜な若い将校が多かったということです。
 これを半藤一利さんは、「1億の日本人は軍人精神のみに生き、この精神の中で死ぬべきであると彼ら軍人は思い上がった。こうした狷介(けんかい)な精神がさらに増長されて政治に興味をもつ数多くの軍人を生むにいたった。至誠忠節、戦闘に強きが軍人の第一の条件ではなくなり、むしろ第一線にでることが懲罰であるかのようになった」と述べています。
 悲惨な戦場を知らない机上の官僚というべきでしょう、そういう人たちが戦争を指導していたのですね。

 まだまだ胸に詰まるところがたくさんありますが、後日の何かの折に触れてみたいと思います。
最後に安吾さんの強烈な言葉をのべます。
 「昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対し日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰の一幕が八月十五日となった。
 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれど忍んで負けよう、という。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
 我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。(略)そのくせそれが言えないのだ。(略)最も天皇を冒瀆する軍人が天皇を崇拝するが如くに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが天皇を利用することに狎れており・・・・  (続堕落論)」
 
  著者の半藤一利さんはわが高校(旧制長岡中学)の大先輩にあたる人でした。そして、お父さんはわが郷里の出身でした。すごいですね。
そして、文藝春秋入社時代、一利さんは安吾さん担当だったことがあるのですね。これもすごい。  H22.8




我が家のデジタル化
 我が家のデジタル化はやっと10月に入って終結しました。
いやはやというところです。まずは、その経緯から。
 今年は9月に入っても猛暑でしたがそんななか、息子夫婦が結婚式に出席を兼ねて9月3~5日に遊びに来るとのこと。
さて、どうしたものかと思いましたが小さな娘もいるし暑ければかわいそうということで、ついに息子の部屋にエアコンを
つけることにしました。我が家初のエアコンですね。
 ところがまちの電気屋さんは売り切れて在庫がないとのこと。やっと1台あるというのでそれを依頼し取り付けを待っていましたら、
新聞に大型家電店の広告チラシ。見るとエアコンがよりどりみどり、しかも同様の性能のものが取り付け料こみで半額でした。
急きょ、悪いとは思いましたが電気屋さんに断りを入れ、大型家電店に直行です。
 さっそく手続きを済ませましたがすぐに帰るのもなんだな、ということで女房とテレビ売り場を見てまわりました。
そうしますと32インチの地デジ対応のテレビが安いこと、当初のエアコン予算で買えそうです。
 我が家はずうっとアナログを守ってきましたがあっさり主旨がえです。これも購入することにしました。

 後日、ここまできたら一気にということで、年寄りの部屋と居間用に別途2台購入し各電気店を喜ばせました。それぞれ別の電気店。
ま、それはよいですが最初のテレビは持ち帰りでしたから自分で接続しなくてはなりません。
 私はテレビの接続はコンセントとアンテナ線だけと思っていましたから箱から準備編と操作編の取扱書がでてきた時はびっくりしました。
読んでいるうちにダンダン腹が立ってきました。まるっきりパソコンではないか。B-CASカードをさしこめ、ン。なんだ。
そんなもの最初から差し込んでおけばいいじゃないか。余計なことをさせるな。それから各種設定だと。ナニ、郵便番号を入れろだって。
もうあきれ返るやら、だからみんなテレビ屋に頼むんだなと思いました。
 それでもなんとか設定をしてスイッチを入れましたら画面がきれいなこと。さすが地デジと思いましたね。
ところがNHK総合はまともにうつるものの他チャンネルは時々画像が停止するやらモザイク状になるやら、そのため、取扱書を
最初から読み直し、ついには専門の電気屋を呼ぶハメになってしまいました。
 アンテナレベルは異常なし、昔のアンテナ端子を使っているのでこれは取り換える、これでどうだ、エッまだおかしいい? おかしいなァ?
そして、あれこれやっていましたが最後に、おそらくお宅は外壁工事をやったということだがその時、壁を伝っていたアンテナ線をその工事で
痛めたことも考えられる、外壁をはがすわけにはいかないからもう一度アンテナ線を張りかえたほうが安上がりだな、その時は
別の担当が相談に乗るからと帰っていってしまいました。
 
 他の部屋の2台のテレビはなにも支障がなく購入先の電気屋さんにより地デジ化が済みましたので、それではこのテレビは不本意だが
当分の間、NHKとビデオ(DVD)用だな、来年の7月まで時間があるから少し考えよう、とそのままにしておきました。
 ところがつい先日この問題はあっけなく解決しました。
風呂の改築に来ていた専門外の業者さんがテレビ側のアンテナ端子コードの先端を切りとってあらためてコネクターに接続し直したら、
一発で解決。これがつい最近のことです。その方の経験からだそうです。結果的にみると一部接触不良のところがあったらしいとのことです。
 いやはやデジタル化は大変なものでした。
近い将来、洗濯機がデジタル化されて初期設定とかB-CASカード挿入とか風呂の初期設定とか車の初期設定とかなったらたまりません。
 その時は旧式の機械に頼ろうと思います。今だって自慢じゃないがアナログレコードを聴いているのですから。
    話しはかわりますがこの間、ビデオ(DVD)をたくさんみました。面白かったもの。
       真昼の死闘(Two  Mules  For Sister Sara)  クリント・イーストウッド主演(マカロニウエスタン)
          シスター・サラとの掛け合いが実に楽しい。
       リオ・ブラボー ジョン・ウェィン主演(ウエスタン )
          脇役の3人がとてもいい。
    最近、西部劇を見ることが多いです。インディアンとの戦争物は見ませんが。 H22.10  



マグダラのマリア
 前にもお話ししましたたようにテレビを地デジ対応にしてから、一層、DVDをみていますが「ダ・ヴィンチ・コード」というDVDをはじめてみました。
後日、調べてみましたら、ダン・ブラウンという人の小説(2003年発刊。世界的なベストセラーになった小説)を2006年に映画化したものということです。
 全く知りませんでした。10年も遅れています。
この映画をみたとき、さすがヨーロッパ、よくぞここまで想像をたくましくできるものだと単純に感心しただけのものでしたが、かなりの事実、隠された真実を小説また映画化したものとわかり評価が一変しました。
 カトリック教会が何億の世界中の信徒に対しこの映画をみるな、という指令を出したこともうなづけました。教会側にとって相当に都合の悪い小説また映画だったのでしょう。

 その都合の悪いこととは「マグダラのマリア」を生き返らせたこと。

 いえ、歴史の中に「娼婦であったマグダラのマリア」あるいは「イエスから七つの悪霊を追い出してもらった罪深い女」、「その後、強い信仰心により悔悛し聖女になった女」として不当にゆがめ、ねつ造され埋められてきた一人の聖女が正当に復活したということでしょう。
 教会の衝撃はいかばかりか。映画でもそのような場面がありましたが、マグダラのマリアはイエスの教えの最高の理解者、伝達者、またイエスの近くにいた同伴者、配偶者とよべる女性であったらしいのです。
 のちの時代に初代バチカン教皇に列せられるペテロは、イエスの死後、マグダラのマリアの風下に立つのを潔しとせず声高に言動を非難し、故意に使徒集団から排除しようと画策しました。
 なにせ、当時は旧約聖書の時代で、女は男の肋骨からつくられた下等な存在とみられていましたから12使徒トップのペテロはイエスに愛された正統な女とはいえ、この女からイエスの教えを受けるのが我慢できなかったのでしょう。ペテロ(岩)というくらい非常に頑固であったともいわれています。
 そのため、のちのバチカンカトリック教団は自分たちがイエスの正統な後継者であるとするにはマグダラのマリアが聖女であっては都合が悪い、そのため、長い時間をかけ、上手に上手に事実とは違うが全くウソではない方式で、意図的に当時の同名の女と混同させ、ついに、マグダラのマリアを「娼婦で罪深い女だったが悔悛し聖女になった女」に仕立て上げていったということです。
 これが「ダ・ヴィンチ・コード」で公にされたということでしょう。

 私はこのDVDをみるまで「マグダラのマリア」は知りませんでした。
ところが市立図書館にマグダラのマリアに関する書籍が何冊もあるのにびっくりしました。とりあえず4冊ばかり借りてきましたが読めば読むほどマグダラのマリアは正統に実在し、その正統性を証明するかのようにカイロで「マグダラのマリアの福音書」も発見され、1955年にドイツ語訳で発表されているていることも知りました。 (右は同福音書の世界的な研究者カレン・L・キングの著作)

 
 おかげて初期キリスト教時代のことがよくわかるようになりました。
でも、それでどうしたといわれると困ります。それだけのことですから。
 ただいえることは歴史の中にはそのようなことがあふれかえっているということを改めて悟った次第です。
この「ダ・ヴィンチ・コード」に描かれたマグダラのマリアの場合は2000年近く、何億という人に事実を語ってこなかったというケタのちがいがあるのでしょう。
 日本にだってその例はたくさんあります。天皇の位を望んだ道鏡童子、古代の蘇我氏等々。
ごく最近では、それとは逆のケースですがNHKの大河ドラマ「竜馬伝」。私の女房はこのテレビですっかり竜馬に心酔しきってしまい、私がいくらあいつはもっと悪どくで不良だったといっても信用しません。このように意図的に人物像は簡単につくられてしまうことが多いのですね。とても怖いものを感じます。
 
 ところで、12月ですから間もなくイエス様の誕生日、クリスマスがくるのですが文献をみますと自分の生みの親のマリアさんをお母さんと呼べばよいものを「産婦」とか「婦人」とかよんでいるとのこと。お母さんが少し可哀そうでありませんか。
 私はお母さんと呼んだ方がイエス様に親しみが持てますし、マグダラのマリア、そしてイエス様の血統がこの世に存在するのであるなら本当に素晴らしいことだと思うのです。いえ、本当にそう思うのです。  H22.12



安吾さんのような
 とくに冬だからでしょうか、女房の指摘を待つまでもなく自分の行動パターンは驚くほど単純化していると感じずにはいられません。
畑に行く以外に行くところといえば近くのホームセンター、書店くらいのものでしょう。あと2週間に1回ほどのレンタルビデオ店、1ケ月に1回ほどの
市立図書館と喫茶店、最近これに映画館が加わりそうですがこんなものでしょう。私を探すのは簡単です。そこに行けばいいのですから。
 もっとも、このトシであちこちに神出鬼没では気持ちが悪くてしょうがないでしょう。
というわけで今回も山(材木)の帰りに近くの書店に寄りましたらすごい本を見つけました。だから本屋に行かなくてはならないのですね。

 「ブッダの贈り物 スマナサーラ長老と初期仏教の世界」という雑誌です。 2011年1月20日刊(学研)のごく最近の本です。
大変失礼な言い方で恐縮ですが表紙のお姿がブッチャーに似いてるようで(?)とても印象的でした。中身はもっとすごい。
 まさに変形しない前のブッダの本当の教え、仏教がありました。これは是非、紹介したいですね。
何日か前の朝日新聞(2/11)に葬儀業者がお寺様にリベートを要求する、という世にも不思議な話しが出ていたことですしね。

 ・・・・仏教は理解し、実践するものです。信仰は不要です。
 仏教は、迷信でもないし、信仰でもない。論理的で実践的な「心の科学」です。スマナサーラ長老はしばしばそう語る。
 ・・・・仏教は宗教ではないのです。
 (宮崎)ほんものの仏教は宗教じゃない、ということですか。 
 (スマナサーラ) 仏教はまったく宗教ではないのです。信じることには大反対ですから。
                お釈迦さまははっきり、あらゆる信仰を捨てて理性を育てることを説かれました。
               仏教に神などいないし信仰しなさいということもまったくない。私たちにとってお釈迦さまは先生以外のなにものでもないのです。
 ・・・・長老ははっきりこう答えました。「如来(お釈迦さま)はもういません」
  (スマナサーラ) (輪廻から離脱した)ブッタはもうどこにもいない。しかし、法がある。ブッタが言ったことは、2500年のあいだ、違うことなくここに伝わっている。
    お釈迦さまは、今、どこにおられるのでしょうか?
    日本人の心情からすれば、(略)お釈迦さまは宇宙と一体化して永遠の命を得た、といわれるとホッとするような面があるがの問いに答えて。

 どうでしょうか。全くとりつくシマがないほど単純明快で、私は久しぶりに気持ちがワクワクしました。 
安吾さんの評論を読んでいるような爽快感です。
 スマナサーラ長老、異国スリランカから日本にやってきたテーラーワーダー仏教(上座部仏教とも訳される。南伝仏教ですね)の長老、日本の仏教界に新たな風を起こしてくれるといいですね。

 わたしは安吾さんの命日月にこのような人に会えてとてもよかったと思います。
安吾さんも東洋大学印度哲学倫理学科に入学し大悟徹底のすさまじい求道生活をしたことはよく知られています。よくよく考えると安吾さんの文学や評論は観念的とも言われますがこの時のナゴリかもしれません。
 そして安吾さんは、救いのないのが唯一の救いといいました。もう仏教的ですね。これはどうにもならない孤独感のそのつき抜けた先の静寂の世界、ブッダのいう涅槃の世界のような気がしてなりません。これは私の考えです。
 ともあれ、よく考えてみようと思います。楽しみがとても増えました。 H23.2



巨大地震
 3月11日(金)午後2時46分ころ、三陸沖を震源として発生したM9の東日本大地震、私のところも大揺れが襲いましたが特に被害もなく停電の寒い一夜と朝を迎えたのみです。翌日の午後に電気がきまして夜、はじめてテレビをみましたが地震や津波の惨状に目が離せなくなりました。
 たくさんの方がなくなったと思うと胸がふさがりました。ただただ祈るのみです。
親を探す中学生くらいの子どもの姿が放映されていましたが涙が流れました。 
 当方の状況を少し述べますと、地震の直前、親戚の伯父が亡くなり、遺体を家に迎え、安置したところで地震に会いました。
 ただならない揺れに安置の作業を一事中断、私は家に一旦戻らせていただいたのですが、信号は停止、おまけに猛吹雪で視界がなく、運転が非常に危険な状態でした。家の中に転倒物はなく、テレビやパソコン等のコンセントを抜いて戻りましたが、今度は、葬儀屋さんが暗くはなるし段取りがつかないと困惑していました。
 電話、ケータイがつながらず火葬場、市役所、お寺様に連絡がつかないとこと、結局、ケータイがつながり段取りがついたのが翌日の午後遅くでした。
 このような状況でしたからごく身内で葬儀を出さざるを得ず、14日に行いましたが火葬場も1日程停電だったせいか随分混み合っていました。

 というわけで、地震からの数日は身内の葬儀で地震のことは多少気が紛れていたのですが詳しいことがわかるにつけ、悲惨さに息をのむばかりです。
 私の友人や知った人も多賀城、亘理、仙台にいます。電話が通じません。無事にいることを祈るのみです。 H23.3.16


民間の気象学者は
 あれからかなり時間が経過した感じもしますが先月、情けない経験をしました。
大震災ののち、10日ほど経てはじめてガソリンスタンドにならんだときのことです。
 朝6時20分というのに50台ほど車が並んでいましたがそれはよいとして、あとから考えると待つ間の準備をしてきませんので8時給油開始の
1時間と40分、寒さと時間つぶしに参ってしまいました。
勿体なくてヒーターをまわす訳にはいきませんので、それではということでハンドルを握ったまま、運転席で交互の足踏み運動をすることにしました。
 足の運動になりますし、血液の循環もよくなるし体温も上がるし時間つぶしになるしと、最後にはどうせならと腿まで高くあげたり、力を入れたり
早くやったりと本格的にやったのですが翌日、なんだか足が痛い、腿が筋肉痛になっていました。
 足踏み運動が原因ですね。震災のガソリン補給とかけて山登りと説く。そのこころは、両方とも筋肉痛になる。情けなくて洒落にもならないですね。

  つぎも震災に関連してのことですが今度の大震災を予測した人が実はいたのです。
「ことし位に大きな地震」とその講師の方が云い、自分のメモにもそのように記してあります。異常気象の翌年に起きるという過去事例が多いのだそうです。
 この方は、農家なのですが気象に興味をもち長年独自に研究してきた方で、2月25日の市主催の農業気象講演会の講師に招かれ私はそこで話しを聞いたのです。
 寒試しという手法、太陽と金星の運行、旧暦・五行(?)の年のめぐりあわせ、過去の気象の出現と色々な面から予測するのですがその方面ではかなり有名な方のようでした。
 余談でいったことですが私は今回ことで思わずギョッとしました。もっともどこでおきる、とはいっていませんでしたが。
また、何点か気になる話しがありました。

 1 今年の4,5月は天気が悪い。特に5月は雨が多い。地温が上がらない。土が乾かない。5月10日前後は寒くなるかも。さくらんぼは実がつかなく不作かも。
 2 今年の秋は早めに天気が悪くなる。
 3 今年の夏は良さそう。
 4 来年(H24)の冬は骨身にしみる寒さとなる。
 5 来年(H24)は大凶作になるかも。
 6 来年か再来年に保証つきの豪雨がある。

  私は民間の予測とは言いながら色々な事象を研究して予測するわけですからあながち根拠のないことではないと思っています。
しかしながら権威のある方はこういうことは認めないでしょう。いや、認めなくてもかまわないのですが私はなぜ、優れた研究施設と高度の計測機とをもちながら今回の大震災を予測でなかったのかそれが不思議でならないのです。(それほど突然におきたということ?)
 今後、この問題は大きくクローズアップされることでしょう。なぜ予測できなかったのか。なにか予兆がつかめなかったのかと。
 
 私は今回のことで、その講師の言い回しではないのですが天変地異と人間の営み、まつりごと(政治)とは関連性があるのでないか思ったところです。
ナマズが地震を予知するといいますが今回のことは見事、ヒトが予知したのでないかと思ったわけです。
 つまり、前年中の社会不安、特に政治の世界における権力闘争、ヒステリックなまでの政情不安は大地震を予知しての姿でなかったのでしょうか。
実にそう思うのです。地震学者もそのようなことに関心を持ってもらいたいものです。
 とはいえ、このような大震災のあと、また小汚い権力闘争をやるようではまた大震災を引き起こすというものです。
いい加減、まともな政治を行ってもらいたいものです。
 結論はここに達するわけですが案外、民間の気象研究者のように多岐にわたる事象、現象(特に人間の)を研究して気象や地震を予測することが今後重要でないかと思った次第です。H 23.4

    

ビーン
 今年は少し豆を多めにつくろうと思っています。豆といっても枝豆や大豆でありません。かなり年寄りくさいですが煮豆、インゲンです。
どうしてかといいますと西部劇、ウエスタンの影響でしょう。

 まえにも申したように西部劇が好きでよくDVDを借りてきて見ているのですがカウボーイやガンマンの食べ物が気になって仕方がなかったのです。
 あの荒野のなかで野営をしながら何を食べていたのだろう、いつも思っていました。パンでもなさそうだし干し肉でもなさそうだし、
コーヒーは度々出てきますので承知していましたが。
 それが「真昼の死闘(私の好きな西部劇)」というDVDをみてやっとわかりました。
クリント・イーストウッド扮するガンマンがシャーリー・マクレーン扮する尼僧にこれは故人(自分が射殺した悪人)が残してくれた豆料理だが
結構おつな味だぜ、とかいってすすめる場面がでてくるのです。思わずバンザイをしました。
 まさか豆を食べているとは思いもよりませんでした。

 それで、ひょっとしたらと思いインターネットで「西部劇、豆料理」で検索したらでるはでるは。
私以上に興味を持っている人がたくさんいることを知りました。
 チリビーンズとかポークビーンズとかチリコンカーンといわれる料理がそれで、今もテキサスなどの西部やメキシコでたくさんの人が食べているそうです。
調理の方法は豆(インゲン種)を主体にそれにベーコンを加え、チリソースで煮込むというのが初歩的らしいのですが様々なバリエーションがあるそうです。
 さすが西部開拓時代、日本人には思いもつかぬ発想と思いました。
保存はきくし、畑の肉と言われるほどタンパク質も多く、調理に手間もかからず、それにインゲンはビタミンB群をたくさん含むので疲労回復にはもってこいなのだそうです。
 ところで誰もが知る「ローハイド」あたりですとキャトルドライブに専用の移動台所車(チャックワゴン)がついてカウボーイたちの食事を引き受けていたそうです。ところがつくるものは明けても暮れても豆料理、頭にきたカウボーイが「やいテメエは豆料理しかできないのかよお。こんなふざけたものがくえるかよお」と旅の終わりには必ずコックにかみつくのだそうです。
 
 こういう食べ物の話しはいい。ですから今年は自分でインゲンを数種つくり、ひそかにチリコンカーンをつくってみようと思った次第です。考えてみますと私たちは豆を味噌とか豆腐で消費しますが豆を料理して食べることは案外少ないように思います。
 あちらの人の方がはるかに豆を食べているということかもしれません。 H 23.6

 * 真昼の死闘 題名の付け間違いでしょう。なにしろTwo Mules for Sister Sara ですから「尼僧サラと2頭のラバ」というところで死闘は大げさですね。
 * シャーりー・ーマクレーン この方の女優デビュー当時の若い姿をヒチコック監督の「ハリーの災難」で見ることができます。
           美人なのですがどことなく滑稽で、尼僧サラの役どころに納得しました。日本びいきの女優さんでしたね。
 * ローハイド これは1959(s34)年~1965(s40)年にテレビで放映され大人気だったとのことですが私はテレビ空白期間で実は見ていないのです。
          いつか見ることを夢見ています。
 * ワイルド・レンジ最後の銃撃 ごく最近見たウエスタンです。中年カウボーイと老年カウボーイが格好良くてたまりません。牛追いの場面もとてもきれいです。


エデン17
 みなさまは「エデン17」という星をご存知でしょうか。ご存じない? それではロミとジョージの悲しい物語のことは? ご存じない? 嗚呼。
書き出しを安吾さんの「風博士」風にしてみましたが手塚治虫の火の鳥「望郷編」にでてくる物語です。
 私は未だ続く悲惨なフクシマ原発をみるにつけこのエデン17の物語を思い出します。

 あらすじをざっと紹介しますと、宇宙航海時代、二人の若い男女が無鉄砲にも新天地を目指して地球を脱出します。
そこはエデン17という未開の星でふたりはまさしくエデン17のアダムとイブになろうとします。
ところがこの星は地震が多く不毛の星で、ジョージは機械の下敷きになって死にロミ一人になってしまいます。
 ロミは悲しみの淵に立ちますが、けなげにもジョージの意志をつぎその星に留まろうとします。そして、エデン17を繁栄させようとします。
そのためロミは一つの決心をします。ジョージとの間にできたおなかの子と結婚をして子どもをつくること。
 やがて20年後、ロミはコールドスリープ(冷凍睡眠)を使い、成長したその子カインと結婚します。
カインの死後はそのまた子どもと結婚をして子どもをつくります。しかし、どうしても女の子が生まれません。
 ロミが絶望した時、あわれに思った火の鳥は6千光年離れた星から不定型生物のムーピーを連れてきます。
やがてロミの子どもたちとムーピーは混血し、ロミが夢見たエデン17を繁栄させます。
 しかし、エデン17は外部から持ち込まれた悪といいながら、一気に欲望と犯罪の星に染まっていきます。
火の鳥は警告しますが時遅しです。
 ロミを失ったエデン17は最後を迎えます。エデン17は地震活動を再開させます。
「エデン17はほんのちょっと身ぶるいをしただけでしたがそれでもその星の上のものいっさいを破壊しつくすには充分すぎました」と結んであります。

 この「ほんのちょっと身ぶるいをしただけで」という言葉に私は背筋の寒くなるのを感じます。
地球がほんのちょっと身ぶるいをしたらどうなるのでしょう。
 すくなくとも日本は地震の多発国です。こんな危険な地震国に原発は必要ない。
予測できたとしても明日のことは分からない、それに人にやさしい地震なんてあるわけないでしょう。 H 23.11


帰る心
 先日、秋晴れの素晴らしい一日を日本海の笹川流れで釣り糸を垂れて過ごしましたが、午後3時頃になりますと別に女房が待っているということではないのですがふと家に帰ろうという気持ちになってしまいます。
 登山の時も同じです。どんなに山が楽しくともなんとなく家に帰ろうという気持ちになってしまいます。家というものは不思議な存在です。
安吾さんは家には人を帰らせる魔物が住んでいる、といいます。
 「日本文化私観」のなかでこう語っています。
 
「帰るということの中には、かならず、ふりかえる魔物がいる。 この悔(く)いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。ナポレオンは常に前進をし、ロシヤまで退却したことがなかった。けれども、彼ほどの大天才でも、家から逃れることができないはずだ。そうして、家がある以上はかならず帰らなければならぬ。そうして、帰る以上は、やっぱり僕と同じような不思議な悔いと悲しさから逃れることができないはずだ・・・」
 
 この断片では諸氏はなにをいっているのか理解不能と思います。まして若い人には全く意味不明かと思います。やはり「日本文化私観 家について」を読んでもらうしかないと思うのですが若い人にはホームドラマのように愛する人と愛する子どもたちと暖かい家庭があるのみでしょう。
 でも、諸氏はそんな感情をもったことはないでしょうか。帰らなければいけないと思う心。
たとえば、私流の解釈では、浦島太郎、あれだけ極楽のような歓待を受けながらやはり家に帰りたくなります。また、安吾さんえがくところの「柿本人麿」、ミヤコの栄華をすててふと女房と暮らした石見に帰ろうと思う、帰ったところであばら家と粗末な食事しかないのです。悲しさが待ち受けているだけになのにそれでも帰りたくなってしまうのです。

 そんなことを思いましたのは今回の大震災で家を失った人々、原発で家を離れなければならなかった人々をたくさん見たからでしょう。
ある人は高台の仮設住宅から我が家のあった場所を指さして涙していました。胸のうちにはいまだ我が家が建っているのでしょう。

 帰る心、安吾さんとはちがう意味で使いますがいつか帰れることを祈ります。 H 23.11


ルーツ

 雪が降ると当方はたちまち夜が長くなってしまいます。明るいうちに仕事はヤメ。そそくさと家に帰ってしまいます。
もはや、凍みた雪道を帰る気力はありません。
 今までよくぞ長距離通勤をしていたものだと感心します。ひどい時は猛吹雪で2時間以上もかかることも度々でした。
神経がすりへってずいぶんなストレスでした。
 今は自由時間。6時といいますと風呂も終わって夕食も終わってあとはなにをしようかゆったりタイムです。
まことに夜が長い。二人暮らしですからなおさらです。

 かくして、DVDや市立図書館の本となるわけですが、「コンタクト」というDVDをみてからは宇宙の起源にがぜん興味がわき、
無のゆらぎとかインフレーションとかビッグバン、はては量子論の世界に頭を悩ます次第です。
最近は生命の誕生から日本人のルーツまで来てしまいました。その面白いこと。
 ある本によりますと、キリスト教の影響かいまだ「進化論」を信じないアメリカ人が3、4割もいるとのこと。
これは信じがたいですね。でも本当らしいです。これは余談。

 それで日本人のルーツなのですが、
旧石器時代から縄文、弥生時代にかけて4回の民族移動(渡来)があり、この混血により日本人が出来上がったということです。
 
 1番目の渡来  今から2万年前(旧石器時代2期)。ヴェルム氷河期中。東南アジア、ジャワ、マレーシア付近から渡来。
            O型の血液型多いモンゴロイド。ナイフ形の石器をもたらす。耳あかは「湿」型。
 2番目の渡来  今から1万4000年前(旧石器時代3期)。ヴェルム氷河期中。シベリア、バイカル湖付近からサハリン経由で渡来南下。
            B型の血液型の多いモンゴロイド。細石器をもたらす。耳あかは「乾」型
 3番目の渡来  今から5000年前(縄文中期)。中国揚子江以南の江南地方から渡来。
            A型血液型のやや多いモンゴロイド。漆器、焼畑農耕をもたらす。耳あかは「乾、湿」両型。1番目の渡来人と近縁関係。
 4番目の渡来  今から2300~2400年(弥生時代)。中国華北、モンゴル付近から渡来。
            A型血液型のやや多いモンゴロイド。弥生式土器をもたらす。耳あかは「乾」型。2番目の渡来人と近縁関係。

 それで何だということになりますが意識するしないにせよ、その渡来人(4回の)の遺伝子は途切れることなく現代に伝わっていると
いうことです。
 自分でもいまさらに気付くことですが自分の耳あかは「湿」型。最初に渡来したモンゴロイドと同じタイプです。
(現在でも台湾やジャワ、スマトラ等東南アジアの人々は「湿」型。モンゴル、北方中国、ツングース、朝鮮人はほとんど「乾」型とのこと。)
ちなみに現代日本人の耳あかは「乾」型が8割で「湿」型はごく少数。北方モンゴロイド優勢の構造です。
   さらに自分の血液型はA型。
ということは3番目に来た渡来人の可能性が高いということですが、合わせますと最初の渡来人と3番目の渡来人の混血を祖先と
しているかもしれません。実に面白い。そう解釈しますと自分の寒がりが理解できます。
 
 ついでに現在の自分に行きつくイノチのつながりを計算してみますと氷河期の最初の渡来人から数えて1000世代目となりました。
           2万年÷20年(1世代交代期間*)=1000世代   *20歳で子どもを産み、40歳で死ぬと仮定。
 父がいて母がいてその父がいて母がいて、と計算したらどのようになるのではしょうか。
よくぞ、弥生人にも負けず、古墳時代も生き延び、応仁の大戦乱も生き延び、各時代の大飢饉にも死なず、戊辰の役も日清、日露の
戦争にも死なず2万年の遺伝子を伝えてきたと思うと驚嘆せざるを得ません。

 むかし、家の近くの山の丘に縄文時代の遺跡がありまして中学生の頃、日が暮れるまでヤジリや石器探しに夢中になり縄文土器の破片をたくさん
集めていました。中学生にして専門的な縄文土器の編年が言えるほど考古学が好きでした。
 高校生の時、よく博物館に遊びに行き中村孝三郎先生から色々お話しを聞いたり勉強しましたが考古学ではメシが食えないからやめろと言われ、
それきりでした。また少し血が騒ぎそうです。  H 24.1
    本稿はニュートンプレス社刊「血液型・海流で探る日本人のルーツ(竹内均著)」によりまとめました。



民間の農事気象学会では。
 先月2月下旬に今年の農業気象講習会がありました。昨年に続いて出席です。
気象庁の発表ではないのでその点気楽なところがありますがなかなか面白いというのが実感です。
 桂枝雀師匠の落語ではないのですが進化の過程でぽっと出の人類に地球誕生から延々と続いている気象を的確に予測することは
難しい事かも知れません。天明の大飢饉の話がありましたがまさに長期データーの蓄積と分析が必要と思った次第です。
 最新の科学的分析だけでは少し心もとないですね。
 ともあれ主要なところを紹介してみたいと思います。

 * 2012年は壬辰年(みずのえのたつ年)。壬年(みずのえの年)は不思議に遅霜や雨が多いとのことです。「寒だめし」予測法によりますと7月中旬に豪雨、
   8月下旬に台風(?)、9月中旬から10月にかけて長雨。雨が多く稲刈りが難しいかもしれないとのことです。
 * また、六白金星の年にもあたり、水生じて水呼んで万物の生育悪く水害、凶作の恐れありの年にあたるそうです。
 * そのほか五行の並びや金星運行、これまでの災害発生歴からいくと平成5年の大冷害年や天明8年の天明大飢饉の気象にも類似点が多いのだそうです。

 結論は昨年より天気が悪いので要注意とのことです。
直近の3月においても荒れる日が多く天気は良くない、4月の春に入っても低温傾向でダラダラとしているとのことです。
 そのため、農家の方は早め早めの対策が必要とのことです。良いことですね。
加えて自信がないけど地震がありそう(日本海側?)とのコメントもありました。恐るべし。 H 24.3
  本講習会では、斎藤善三郎氏監修の気象予測、寒試し気象予測、酒井興喜夫氏の未来観測研究所の気象予測を総合して説明されました。



待ち人来たる
 さる3月31日に仙台で初期仏教講演会と瞑想会があったので参加してきました。「いつだって逆境・それでもくじけない心がまえ」。
仙台に来るのも大震災以来はじめてのことですがこの方を待ち続けても久しかったです。ようやく本人にお目にかかりました。
 アルボムッレ・スマナサーラ長老。実に理性的な方でいらっしゃいました。衣も黄色い反物みたいなものを肩から体に巻いていました。
さすが本場のお坊様でいらっしゃいます。

まずはメモをしてきた事柄から。
 いくら神様、仏様助けてくださいと祈ってもなにも得られない。祈って願い事がかなうなら誰でも祈るだろう。
神や仏はいない。もし、いるのなら大地震も津波もあるわけがない。
 感謝するなら、神様、仏様でなく今、自分の世話をしてくれている身近な人に感謝すべきだ。
自然は生命(生き物)にとって恐ろしい存在。人は(科学の進歩で)感じていないだけだ。スキあらばイノチを殺そうとおもう存在。
 どのように生きるべきか。生命の憲法を守ること。自分を大事にして欲しいなら他の生命も大事にすること。微細な細菌のイノチにだってそう。他の生命を敵にまわさない。
 津波や地震がなくても人は死ぬ。亡くなった人をいつまでも思い続けることは自分を苦しめるだけの話し。生きる解決にならない。自分だって死ぬ。それとも自分は死なないと思っている?
 自分(自我)というものは存在しない。脳の錯覚。妄想は膨らみ続ける。止めることはかなり大変。思考を止めると別の世界が見えてくる。それが瞑想。

 もう少しまとめますと長老は今回言及しませんでしたが根底に初期仏教の死生観があるのですね。
すなわち、人は死ぬと生命エネルギーによって輪廻転生する、因果、因縁のあり方によって別の生命(人とは限らない)に変わっていく、それだけだといっているのです。説明は難しいのですが。
 日本の仏教ですと死者は誰でも彼でも成仏して、しかもいつまでも本人のままで極楽浄土に行って生活するという結構な教えなのですが、初期仏教、釈尊の教えではそもそも神や仏はいないのですからそんなものはない、といっているのです。あるのは自分の因縁、因果だけ。
 死ねばもう本人はどこにもいない。どこにもいないのにいつまでもいるように思って嘆いているのはおかしいという訳です。意味がないと。自分を苦しめるだけだと。それより自分だっていつかは死ぬのだから一日一日を大事に暮らした方がいいというメッセージだと受けとめました。

 実に理性的な話しです。もっとも、仏陀が涅槃に入るとき、修行しているあなたたちは(弟子たちのこと)自分が死んでも葬儀にかかわってはいけない、ただ修行にいそしみなさい、葬儀は在家の人にやらせなさいといったくらいですから、死を特別視するのは伝統的にないのでしょう。
 いまでも長老の出身のスリランカでは、葬儀があるとき、その家にお坊様は出向いて簡素な葬儀をあげるのですが葬儀が終わると、事務的にその家からさっさと遺体をお寺まで持ち帰るようなのです。死者が子どもの場合、遺体が家を出るときお母さんはどこの世界でも同じで遺体にすがって泣くらしいのですが身内や縁者と死者とのつながりはそれで終わりです。
 あとはお寺が処理するようなのです。ハデな告別式も火葬儀式も納骨も何回忌かの法要もない。お墓もないから墓参りもない。戒名もない。
輪廻転生の世界なのですね。家を離れるとき、いいところに生まれ変わってね、と祈るだけなのだそうです

 講演をつうじて初期仏教は生きていくことだけが大事な世界と思いました。そして自らを律しないといけないと。
私は文句ばかり言っているので極楽はないでしょう。
 あるわけはないのですが仮に、1年に1辺お盆に帰ってきてもいいよ、と言われても来ないでしょう。
とまれ、実践と瞑想の初期仏教、興味深いことでした。瞑想で別の次元の世界も垣間見てみたいとも思っています。
 アルボムッレ・スマナサーラ長老、待ち人来たるでした。  H 24.4。

 安吾さんも「堕落論」のなかでいっていますね。早く忘れた方がいいと。




なんと理不尽な。
 6月10日白昼大阪の路上で無差別殺人があったと報道されました。それも馬乗りになって無言で刺し続けたという凶悪な犯行です。
理由が自殺をしようと思ったが(出来ず)人を殺せば死刑になって死ねると思ったというのです。
 狂っている、そう思うしかありません。亡くなられたお二人の方が気の毒です。

 さて、犯人は死刑が本望なのでしょうか。
イノチとはどんなものかわかっていたのでしょうか。是非とも聞いてみたい。
  こういう人間には死んでから罪を償えと言いたいですね。

 昔はそういう人たちに恐ろしい地獄が待ちうけていました。
今は地獄のことを言わなくなりました。日本仏教が葬式に特化してしまったせいでしょう。
すべて(死後は)成仏、極楽の世界です。あの世でゆっくりお休みください、葬儀でよく聞く言葉です。
 普通の人でも悪いことはいっぱいしたでしょうし、私は大ウソツキだと思うのです。 
 この凶悪犯はどうなるのでしょう。
阿弥陀の誓願とは一体なんなのでしょう。少しでも悔悛すると許されるのでしょうか。だとしたら私は・・・・・。 
 地獄の存在を死刑を執行する前に語るべきでしょう。
一体、死ねばみんなホトケになれるなんて誰がいったのでしょう。きわめて日本的(無責任)です。A級戦犯のときもそうでした。
 死んでもさらに責任を取るべきです。第一道徳に反します。日本仏教は地獄を語るべきです。

 藤原正彦著「国家の品格(新潮新書)」にこんなことが書いてありました。
かって、日教組の教研集会で、傍聴していた高校生が会の最後になって「先生、なんで人を殺しちゃいけないんですか」
 ところがそこにいた先生たちは誰ひとり論理的に説明できなかったと。

 初期仏教では即座に答えるでしょう。どんなイノチだって生きたがっている。だから殺してはいけないのだ。
著者は会津藩日新館の教えを引き合いに出してこう答えます。「ならぬことはならぬのだ」
 論理的ではないのですがそれが正しいのです。
私も人を殺せば穴二つと教わりました。

 最近、巷の政治家は政治生命をかけるとかよく言っておりますが言葉だけですね。
責任を取ってハラを切るとか国会議員を辞めるとかそれを言ってからにしてほしいですね。
 原発もそうですが誰もが責任を取らない時代になってしまいました。この事件で誰が責任を取るのでしょう。   H 24.6。




映画の思い出
 今、市内の映画館(コンプレックスシネマというのだそうです)で「第三回午前十時の映画祭」をやっています。
厳選された懐かしの名作50本。大型スクリーンで見れる最後のチャンスとのことです。
そのなかで7月21日から8月17日まで何と西部劇が4本も並びました。
 ユル・ブリンナーの「荒野の七人」、クリント・イーストウィッドの「荒野の用心棒」、アラン・ラッドの「シェーン」、グリゴリー・ペックの「大いなる西部」。
DVDでは何回も見ているものの「シェーン」を除いて映画館では初めてです。30歳も年が若返ったようにわくわくします。

 「シェーン」は大学時代に偶然見ました。
土浦のあまりきれいでない映画館でたまたま行ったらやっていたのです。それが目当てでもなんでもなかったもののいい映画をみたと思いました。
 (3本立てでもう1本は「ミクロの決死圏」。もう1本は忘れました。2本立てだったかもしれません。)

 なぜ西部劇が好きなのかについて、
自分なりに色々考えているのですが要は自分にとって相性が良いだけの話でしょう。
  *人が馬と拳銃で自分だけの力で生きていること。
  *話しが単純、言い訳が通じないこと。
  *人が虫ケラのように死ぬこと。
   これは説明がいるでしょう。西部劇をみていると人間も虫ケラも同じように見えてきます。拳銃で撃たれればそれで終わり。いいも悪いもない。きっとイノチなんていうものはそういうものなんだろうなと思わせます。
   (だから大切にしないといけないのだと。)

 現在2作が終わりまして8月4日から「シェーン」が上映されます。2回目の大型スクリーンです。
ラストがいいですね。ニョウボウモ連レテ行キマスカ。
 
 ところで映画の思い出ですが、高校時代確かに映画鑑賞会があって「東京オリンピック」、「黒部の太陽」、「クレオパトラ(エリザベス・テーラーの)」を各学年で見たおぼえがあります。
 この順番は不確かですが先生に連れられてすごい人数が市内の映画館に入ったのですね。貸し切りだったのかも知れません。
いまもその場面場面は鮮明に思い出すことができます。
 今も学校で映画鑑賞会をやっているのでしょうか。
これは本当にすごいことだったのですね。高校教育で映画館にまで行って映画をみるということは。
 これだけでもいい学校に入ったのだと感謝しています。   H 24.8。



本当のこと
 これも映画(DVD)の話しですがお気に入りの西部劇に「ワイルド・レンジ 最後の銃撃」というのがあります。
ケビン・コスナーが監督と主演をつとめた2003年制作の比較的新しいウエスタンです。
 以前にも述べましたように冒頭の牛追いの場面がとてもきれいです。加えて最後の場面では馬上で愛する人にさっと手を挙げて
別れを告げる場面が何とも言えません。
 ところでケビン・コスナー演ずる中年カウボーイが自分のボスである老カウボーイ(ロバート・デュパル)に実はオレの名前はウエイトではない、チャールズ・トラヴイス・ポステルウエイトが本当の名前だと告白する場面があります。あんたもまさかボスという名前であるまい、死ぬ前に本当の名前を教えてくれ、というのです。これから二人で8対2の決闘におもむかんとするときです。どうせ銃撃で死ぬのであれば本当のことを知って死にたいというのです。
 私は今でもこの場面とセリフが頭に引っ掛かって離れません。考えれば考えるほど理解不能な超絶したセリフです。あるいは決闘に臨んで10数年触れないで過ごしてきた過去のこだわりがパチンとはじけとんだ場面だったのかも知れません。
 本当のことが知りたい。それ以来時々つぶやく小生であります。

 ところで9/11の尖閣諸島国有化に端を発した中国の反日デモ。
実に衝撃的な映像が流れましたがそれが政府に仕組まれた、あるいは上層部に操られた管理デモであったなら、なんとバカらしくそれ以上に悲しい事はないでしょう。いくら暴走しても。
 政府当局の情報管理により(外から見るとパレパレなのですが)自分達が操り人形のように思考コントロールを受け、操られているとわかったらどのように自分を弁護するのでしょうか。本当のことを知らされない悲劇みたいなものでしょう。

 中東や世界各地で自爆テロがありました。爆弾を抱えて敵と爆死するのです。自分が死ぬ恐ろしさよりそれを上回る外の力(宗教)がそうさせるのです。死して天国の特等席に行けると。本当にそう信じて死ぬのでしょう。これも思考コントロール。情報操作。
 かっての軍国日本も同じでした。天皇の赤子。鬼畜米英。大本営発表。特高警察。
死んで靖国神社で会おう。これがせめての死にゆく者の慰めでした。全て軍部の思想管理、情報統制でしょう。
 私はだまされたくないですね。すべてが狂気の沙汰でした
ちなみに、思考コントロールを目的とした反日教育は続くでしょう。非常に便利ですから。企業の経済活動も大変です。それを承知の上なのですから。

 本当のこと。フリー・グレイザーの世界では当然のことです。
ではなにが本当のこと? 情報隠しは今もありますし自分に都合の良い部分だけ事実とすることは日常茶飯のことです(たとえば国会)。では本当のこととは?
 安吾さんにウソをつけ!ウソをつけ!ウソをつけ!といわれないことが本当のことなのでしょう。私はそう思います。
本当のことにこだわった中年カウボーイ、チャーリー・ウエイト。このような寡黙な人物がいつまでも生きられる時代であって欲しいと思います。
  H 24.11。


訃報ゴードンさん
 ゴードンさんが12月30日(2012年)に亡くなったと新聞に報じられていました。ベアテ・シロタ・ゴードンさん。享年89歳。
新聞に写真が載っていましたので改めてこんな女性だったのかと感慨深いです。心からお悔やみ申し上げます。
 
 北康利著「白洲次郎占領を背負った男」ではこのような彼女の紹介です。
また松本*の目には、彼女は派手な服を着た厚化粧の女で鼻の穴からタバコの煙を吹き上げ、何かといえば<フハン、フハン>と鼻声で相槌を打つ<あやしい女>という印象に映って顔をしかめた。だが写真から見ればシロタ女史はけっしてそんな<あやしい女>などではなくきわめて知的な女性である。松本にすれば、坊主憎けりゃ・・・・というところだったのだろう。
  * 松本  松本烝治。 国務大臣。日本側の新憲法草案作りの最高責任者。非常に頑固。法曹界を背負っていると自負。当時66歳
 ゴードンさんは法律は素人、しかも当時23歳という若さでしたが並いる憲法学者や法律家を退けて憲法の条文にはじめて男女平等の権利を盛り込ませました。これは日本女性の地位向上に破格の大金星でしょう。
「ここは日本の事情をよく知っているミス・シロタが日本女性の立場や気持ちを考えながら提案したところです。悪いことが書いてあるはずがありません。採用しませんか?」
ケーディス大佐が援護したと述べられています。 ゴードンさんが少女時代の10年間、日本にいたなればこそのことでしょう。
 <婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する。憲法第24条>これさえ日本側に強い難色、反発があったということです。

 ついで申しますと天皇の大権、統帥権について日本側は必至の抵抗だったといいます。世の知識人は価値観も含めすべてが灰燼に帰した現状を受け入れられなかったようです。
 松本国務大臣の述懐。
「おれには日本国民っていうのは実際わからん。本当にものがわかったんだかどうだかわからん。自分は日本国民におこられちゃ困ると思うから、たとえば主権は国民にありなんて、天皇主権を否定するような言葉は使わないようにしたんだ。ところが日本国民は、国民主権なんて言い出したら、もう平気になっちゃって(略)誰も気にしない。日本国民は実際どうかしている。(前述白洲次郎占領を背負った男)」

 その点、安吾さんはしっかりしていましたね。
「元来日本人は最も憎悪心の少ないまた永続しない国民であり昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照らすのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照らし、たちまち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。(堕落論)」
 そして
「笑っているのはつねに十五六、十六七の娘たちであった。彼女たちの笑顔は爽やかだった。(略)わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年ごろの娘たちは未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、(略)私は焼け野原に娘たちの笑顔を探すのがたのしみであった。」といっています。

 憲法素案づくりに深くかかわった白洲次郎さんのコメント。
「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何が中心かアイマイな、前代未聞の憲法が出来上がったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集まってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マックアーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと素直に受け入れるべきではないだろうか。(プリンシプルのない日本「諸君掲載 」)」

 自民党の安部総理などは押しつけ憲法の改正、集団的自衛権(私の理解では戦争)の容認を声高に言っていますが一体何が面白くないのでしょうか。人類史上初めての「戦争放棄」条項が気に食わないのでしょうか。
 ゴードンさんは最後の直前まで日本の平和と女性の地位向上を気にかけていたそうですよ。合掌。   H25. 1。


TPPの行く末
 泣いた女がバカなのか だました男がわるいのか
私たちが学生だった頃、大ヒットした「東京ブルース」の出だし。水木かおる作詞、藤原秀行作曲、歌手は勿論西田佐知子。私の友達なんかあの独特の半音上がるような歌い方がなんともいえないと大好きでした。学生運動の理想と挫折の入り混じった時代。私も気の強い女がぐっとこらえていてるような歌詞と風情が大好きでした。

 ところで未だ方向性の見えないTPP、環太平洋経済連携協定、どうやら農民、農業団体は自民党にいっぱい食わされたというのが私の考えです。
そんなかわいそうな女をだましたのは・・・・・。
 こんなことで引き合いに出されるなんて西田佐知子さんも迷惑に思っているでしょうね。

 その確信たるものは先の衆議院選挙(H24.12月)。自公が政権を獲得するないなや、JA全中(全国農業協同組合中央会=日本の農協組織の最高指導機関)の最高幹部がさっそく自民党表敬訪問ではありませんか。約束をたがえないようにということでしょう。実に痛々しい。選挙時のTPPに賛成か反対かの踏み絵を踏ませたあの元気良さは全くありません。農民らしくなく恰幅も良かったのですが私には男に振られまいとすがりつく女のように見えました。(昔のシンパ。女性の方には申し訳ありません。)

 そもそも、自民党の大スポンサーは経済団体でしょう。名だたる大企業。第1次産業(農林水産業)とは住む場所が違います。実力も違います。思想も違います。
一緒にいられるわけはないのです。それなのに農業団体が自民党にくっついてられるのはどういうことでしょう。寄らば大樹のかげということでしょうか。
 私はいい加減自民党を卒業したらどうですかといいたいですね。間もなく参議院選挙もあることですし。でも民主党もダメ。TPPに賛成ですしね。

 新聞報道によりますと、安部総理のアメリカ訪問は1月から2月に伸びたとか。オバマ大統領は世間話でなくTPPについて結論を持って来いということでしょう。
日米同盟の強化を図る安部総理に果たして交渉参加は出来ません、といえるのでしょうか。
 農民や農業団体は自民党の衆議院選挙公約「聖域なき関税撤廃を前提とした交渉参加に反対」を鬼の首のように思っていますがその前段に国益に反するような、と書いてあるのを問題にしていませんね。国益に反しないならもしくは貢献するのなら聖域のない関税もOKということでしょう。
 その程度のことは認識しなければいけませんね。あるいは都合の悪いことは知らないふりなのでしょうか。

 私はTPPには反対です。これは非常に明確です。
経済の原則は利益、利潤の追求です。TPPはさらに強烈な推進者になるでしょう。人も人の生活も国も無視、ボーダーレスの世界をめざすでしょう。行きつく先は巨大産業の出現とその世界支配でしょう。ナウシカが描くところの巨大セラミックス産業。現に農業ではひそやかに種子支配がグローバルに進んでいますね。
 放っておけば企業は利益を求めて間違いなく暴走します。その暴走を止めるのは人間の知恵でしょう。ほどほどのところでゆくべきです。色々な価値観の人間がいるように。
 
 私はせっかく農協に政治連盟があるのですから新たな農民政党を結成してはどうですか、提案したいですね。公明党も創価学会だけを母体としていますよ。比例区で20人も取れば大きな勢力になりますね。まさに自立する農業、農民です。
それともまた自民党支持なのでしょうか。踏まれてもけられても補助金さえもらえればよいのでしょうか。昔のままですね。
 私はまた西田佐知子の東京ブルースを口ずさむでしょう。でも、東京ブルースは好きですよ。    H25. 1。


再びTPP
 3月16日に安部総理はTPP交渉に参加表明をしました。「聖域とする関税」があるという理由でした。それなら参加をしてもいいのでないかと思った国民は
多いでしょうね。心配をして損をしたという人もいますね。ひょっとして高等戦術だったのでしょうか。それとも・・・・・。

 あれから市立図書館から本を借りて色々勉強をしてみましたが矢張りTPP(アメリカ)恐るべしの感を深めてしまいました。
その理由は後述しますが後日、交渉参加表明を受けてコメントを求められた自動車工業会重鎮のけげんそうな顔が忘れられません。
アメリカは自動車2.5%、トラック25%の関税を聖域化するようなのです。これでは自動車業界のうまみは帳消しです。
 果たしてそこまで読んでいたのでしょうか。TPP参加国のなかでアメリカほど期待できる輸出先はありませんから。

  TPPについての大きな疑問(反対意見)を述べてみます。
*TPP参加国のうちアメリカ以外に経済的には大きい国はなく、ほとんどが輸出でいきている国(内需の低い国)であること。
 従ってTPPに参加してもで期待ほど日本からの輸出は拡大しないだろうと思われること。
*アメリカはオバマ大統領の一般教書演説(2010年)でもわかるように輸出拡大を国家戦略に定めており、半面輸入は抑制し貿易収支の改善を図ろうとしていること。TPPはその手段であること。
*アメリカは交渉参加国をまとめて必ず日本の農産物市場の開放を求めてくること。なぜならそれがアメリカの目的であること。
 その理由は明白で全品目平均関税率の比較ではアメリカより日本のほうが低い状態にあり、アメリカ産品の競争力が高くないことを認識しているため。
 また、アメリカの絶対有利分野が農産物と金融関係であるため。
*日本の発言が関税のほか「非関税障壁」まで取りはらうかのような錯覚を交渉相手国に与えていること。そこまで踏み込んでいること。
  いわゆる外国企業が日本市場に参入するとき障害あるいは不利となるものを取り払おうということ。たとえば環境規制、食の安全規制、医療規制、
  労働規制、商取引慣行、許認可、果ては言語やその国の文化までを含むといわれるもの。とんでもないことです。

 これをまとめますと、期待したより輸出業界(日本)にうま味はないということです。輸出はさほど増えない。むしろ一方的に農産物を中心とした輸入が
増えるだけということです。それとアメリカマネーが。

 しかも国内には大きな問題が派生的にでてきます。
その1 農産物市場を開放すること、あるいは交渉によって低関税化になったとしても安い農産物がアメリカのみならず各国から輸入され農水産業は決定的な
     打撃をこうむること。価格保証をしても効果がないところまでゆきつき専業農家ほど早く廃業すると思われること。この人達の雇用先があるかどうか。
     (兼業農家は損得度外視で経営するかも)
      加えて外食産業にも影響が出るといわれる。安い牛肉を使ったどんぶりが出れば一般のレストランも対抗上値下げをせざるを得ない。
     人件費削減にも手をつけざるを得ない。ここにも失業者が出てくる。全国的に。
その2 産業界全体がさらなる競争社会に入らざるを得ないこと。これは誰にでも理解できることでしょう。製品に競争力をつけるためコストを下げる、
     究極的には人件費削減。廃業者も出てくる。果たしてTPPにより雇用が安定し、給料が上がるでしょうか。

   そして最後はデフレ脱却なぞ夢のまた夢。常に安価な製品をつくり続けなくてはいけない世界となるでしょう。
 サラリーマンこそ反対すべきと思うのですが賛成の方が多いですね。自信があるのでしょうか。それともバラ色の夢をみているのでしょうか。
  もし、TPPの未来で安定した世界が来るとしたらそれはもう間違いなく巨大独占企業の出現でしょう。 
どう考えてもほどほどがいいですね。   H25. 4。

    本文は中野剛志著「TPP亡国論」集英社新書を中心にまとめました。
 
 
 なお、著者はTPPよりEUとのFTA、日中韓のFTAの方が融通が効き、経済効果が高く日本にも有益といっています。私もそう思います。
そもそもTPPは小4ケ国の経済協定だったものをアメリカが横やりを入れたものです。
対等の世界ならそれも良しですが規模も実力も事情も違います。もっとましなことを望みます。これからの世代のために。

 著者は為替相場が低位に安定するなら(円安)なら、TPP以上の効果があるといっています。



明日の心だぁ
 小生、退職からすでに数年になりますがいまだ農業新聞を購読しているのであります。いらないといえばいらないのですが習慣とか惰性みたいなものでしょう。
それでも結構読むもの。
 連日、TPP反対運動が書かれない日はありません。JAグループを中心に各地で活発に展開されているのがわかります。そしてそれが刺激となって
さらに力が入っているようにも感じられます。
私自身、かなりの関心をもって見ていました。あたかも日本国中が反TPPに染まっているように。

 ところがどっこい、トップは(全国農政連=全中)ははやばや白旗だったのですね。
次期7月の参議院選では「TPPに反対の考えがあれば立候補者を推薦」という非常にゆるい条件です。5月10日付朝日新聞に自民に配慮か、と書かれていました。
 まったく理解に苦しむのであります。
あれだけ騙されたのですから自民党は支持せず、くらいの表明があってもよいと思っていました。
 ある新聞の報道ではトップはすでに低関税化も視野に入れているといわれています。
そうしますと各地で行われているTPP反対運動は全くの茶番だということです。洒落にもなりません。
 農家の心情に理解をしめし協力した消費者やその他の団体に対しどのような弁解をするのでしょうか。
そもそも結果的には先の衆議院選挙で地方の自民党を勝たせTPP推進に拍車をかけたのはほかならぬ農業団体ではありませんか。
 その責任はどこに行ったのでしょう。TPPは反対だが自民党は支持しますというのでしょうか。私は百姓根性をまざまざと見せつけられたようで
イヤになりました。誰も信用しなくなるでしょう。
 
 昨年12月10日に小沢昭一さんが亡くなりまして「小沢昭一の小沢昭一的こころ」はすでに聴かれなくなりましたけど
エンディングのまた明日の心だぁ、という明るい言葉は結構私の仕事の励みになっていました。がんばれば明日なんとかなると。
残念ながら全中トップの発言に明日はありませんね。いじけている。
 ダメだっていいではありませんか。
どの政党に乗ったって農家の面倒なんか誰がまともにみるものですか。集票マシーンとしての農協の面倒は見るかもしれませんが。

 ついでに宮坂さんならなにを考える。
規模拡大してもアメリカやオーストラリアに太刀打ちできない、輸出に活路というが最後は価格で負けてしまうだろう。八方ふさがった。
 そこで宮坂さんの出した結論は・・・・・。
宮坂さんは自分の出した結論に大きくうなづくのであります。この続きは明日の心だぁ。  H25. 5。

  勘の鋭い賢明な諸氏はすでにおわかりのことと思いますが宮坂さんのためにしばらく沈黙を。日本の農業をいかにして救おうかということです。


明日の心だぁ。その2
 あしたの心がいつの心になってしまいましたがその間、参議院選挙がありまして、7/21の投開票で自公圧勝だそうです。
そして、日本農業新聞(7/22付け)によりますと「農村票も自民回帰」で選挙区では57%、比例区では54%の高い支持(投票)だったそうです。
 これには宮坂さんもびっくら仰天。
いやぁ、ぼくにも農家の知り合いはたくさんいますけれど皆さん大変ですナ、心やさしい宮坂さんは思わず苦笑したのであります。
 小見出しに「反TPPの受け皿少なく」と載っていました。
安吾さんなら瞬時にウソをつけ!、ウソをつけ!、ウソをつけ!の一喝でしょう。はじめからその気はなかったのですね。

 さて、宮坂さんは奥から古い雑誌の切り抜きを持ってきたのであります。家の光協会刊雑誌「地上」2006年4月号。冨田きよむ写真と文。
これは実に感動的な光景ですな、私は宮坂さんが小沢昭一さんのイメージにダブってしまうのでありますが見て見ますと、なになに、ロシア、サハリンの農業事情、シャラポワ似美女が農場でジャガイモ掘りだと。
 いえ、宮坂さんの場合はジャガイモよりロシアの美女に心を奪われたのでありますが、レポーター氏(冨田きよむ氏)も一体にロシア人はスラブ系の人種で若い女性はこの世のものとは思えないほどきれいである由、(でも3日で慣れた)すれ違う女の子が全てシャラポワでスタイル抜群、美人で透き通る白い肌と書いていますね。いゃぁ、是非行ってみたいものですな、宮坂さんは目を潤ませるのであります。
 写真をみますと大型バスで来た100人以上の中高校生が広大な農場でジャガイモ拾いをしていますね。なんでもサハリン州の法律で中学生以上の住民に年4日間の農作業義務があるそうで、それではさぞかしイヤイヤの作業と思いきや年頃の子どもたちがワァーワァー、キャーキャーとても楽しそうなのであります。
 可愛い子が大きなお尻をツンと立てて軍手でジャガイモをひろっている姿は宮坂さんでも深いため息をつくのでしょう。そしてひとこと。日本にはないだろうな。

 ところで、ロシアといえばダーチャ。家庭菜園のある郊外の家。 
豊田菜穂子著「ロシアに学ぶ週末術(ダーチャのある暮らし)」WAVE出版によりますとロシアでは10世帯のうち8世帯が素人農業をやっているとのこと。
 いわゆるソ連崩壊時の置きみやげ。政府は食糧の安定供給は出来ないから国民は自分でつくって確保せよ、農地はたくさんあるからということで出現したダーチャ。これが素直に市民に受け入れられたのですな。金曜の夜は一斉にダーチャへ。そして土日はモスクワはカラになるといわれています。
 さすが農民国家ロシア。耕作なんて当たり前。何の違和感もないですね。

 それに長い夏休み。学校は3ケ月、一般の職場でも1ケ月といわれていましてこれもダテではないですね。食糧生産の稼ぎ時。そのための夏休みといっても不思議ではないですね。
 それでなんとジャガイモの9割がダーチャからの生産といわれています。その他キュウリもニンジンもカボチャも野菜はとにかく家族が一冬越せるだけのものを生産しているといわれています。お店で買うのは肉と乳製品とパンくらいのもの。日本の兼業農家真っ青ですね。まことかウソか乳牛の4割、豚の45%もダーチャで飼育されているといわれていますよ。

 こうなるとTPPは関係ないですね。そもそも食糧は自分で生産するもの。ロシア人は信じて疑わないでしょう。単純明快な真理です。安い農産物が入ってきてもロシアのひとはやはり自分で土地を耕して生産するでしょう。
 宮坂さんは思わずうなってしまいましたよ。ボクにも1ケ月の夏休みをでも、土日があるではないですか。宮坂さん。

 ひるがえってわが国のTPP騒動。
農家は農業農村が崩壊するといって大騒ぎ、政府はこれから農業所得を10倍にすると大ボラ吹き。何か視点が違うのではないですか。
 このレポーター氏(冨田きよむ氏)も言っています。ロシアのダーチャをみているとWTO農業体制がバカみたいに見えると。
 本当にそうですね。大規模化より日本人全部を農家にすればよい。
土日はすべて郊外で農作業。子どもたちや孫たちの教育にも良さそうですね。家庭の平和にも。ちなみに白洲次郎さんも農家だったようですよ。 H25. 8。



コスモクリーナー
 9月5日の朝日新聞の4コママンガにこんな会話が載っていました。地球防衛家のヒトビト。
 お母さん  原発の汚染水ってそうとうたいへんなんだろう?
 お父さん たとえばウチでいえば・・・
       トイレで使った水を下水に流せなくて
       とりあえずタンクにためてくんだけど
       いまや家の中いっぱいで増え続けてるってカンジかなー
 お母さん ぞ~

 まさに原発の今の状況です。
高濃度の放射能汚染水が一日当たり400トンも発生し、いわゆる炉心冷却に使った最高濃度の汚染水と地下から流れ込んだ水との混じり水ですが
敷地内一杯に並んだ巨大なタンクに保管されています。8月上旬で41万2千トンの容量中、既に34万6千トン分のタンクが使用され残りは2割ほどだそうです。
 今年には70万トン、16年度では80万トンにも増えるのだそうです。全くどこに置くのやら。
しかもこのタンクの管理や構造がずさんで一部のタンクから漏出が発覚し(8/20に推計300トンと発表)それが海に流出していると説明されました。勿論高濃度汚染水。
 地元の漁協は9月に試験操業の予定でしたが延期。韓国はこれを口実に東北6県の水産物を輸入禁止としました。
オリンピック招致でも各国から懸念の声があったということです。
 (しかし9月8日の開催地選挙で2020年は東京に決定。これは良かったですね。なにせ日本びいきのブエノスアイレスの地ですから。)

 それでようやく政府は重い腰を上げたようです。470億円の国費投入。内訳は地下水流入防止の遮水壁建設と汲み上げ井戸の改修で320億円、
それとトラブルで稼働が止まっている放射性物質除去装置「ALPS」をこえる装置の開発に150億円とのことです。
 遮水壁は土を凍らせてつくるのだそうです。トンネルの出水対策で一時的に使われた技術らしいのですがシロートにはわかりません。
それよりも敷地を囲んで深い(50mでも100mでも)排水溝を切った方がましと思うのです。単純で間違いない方法。畑でも田でも良くやりますね。
 それと放射性物質除去装置の開発ですが150億円で足りるのでしょうか。日本国中の原発技術者の総力をあげ誰もが驚くほどの予算を使ったらいいですね。
いつかまたこういうことが起こりうります。そうしたら日本は世界に大貢献出来るでしょう。放射性物質除去装置の開発。
 いつの日か、イスカンダルまでコスモクリーナーを取りに行かなくても済むかも知れません。

 それよりも耐用年数が5年しかないタンク群が私にとってとても心配なのです。量が増えれば管理も保守も行き届かなくなるでしょう。
万が一、倒壊して汚染水が海に流れ込んでしまったらオリンピックどころではありません。あれだけタンカを切ったことですし。
 今回の原発事故で賠償金や除染費用で10兆円をこえるといわれています。こんなに割りの悪いことはありません。
原発はただちに廃炉にすべきだと思いますが先に申したコスモクリーナーだけは早急に成功させたいものです。
 ここまできたら470億円なんて大したことはありません。世界中が見ています。  H25. 9。




スール(南)
 アルゼンチンタンゴにLa cumparsitaなど名曲はたくさんありますが私はSur(スール。日本語で南 )という曲が好きです。
アニバル・トロイロ作曲、オメロ・マンシ作詞。1948年発表。奇しくも私の生まれた年(s23)であります。
 今は亡きエドムンド・リベーロさんの訥々とした歌声を聴くとなぜか涙がでるのです。この歌に歌われている情景は
さらに20年も昔のものといわれています。私には目の前にその情景が浮かび上がってくるのです。オレはその頃のアルヘンテーナを懐かしがっているのかと。

 古きサンフアンとボエドの角、いちめんの空、ポンページャ区、その先は洪水
 いいなずけだったきみの、ひたいに垂れた髪は思い出の中に
 そして別れのことばに浮かぶきみの名前。
 鍛冶屋の街角、泥と草原
 きみの家、きみの歩道、あの軒下
 そしてふたたびわたしの心を満たす
 雑草とアルファルファのかおり。

 南・・・・・・
 土の壁、その先は・・・・・
 南・・・・・
 (以下略)

 ところで藤沢嵐子さんは1953年(s28)、ペロン大統領主催の慈善コンサートでこのスールを歌っているのですね。
日本人が初めてブエノスアイレスで歌ったタンゴの歌声。
 「はるばる遠い桜の咲く国からこられた小さな日本のタンゴの歌手がここに出演されることは、アルゼンチン人として、またおなじタンゴを演奏する私にとって大変うれしいことであります。」
 バンドネオンで伴奏してくれるアニバル・トロイロさんのあいさつ。
そして、嵐子さんのペロン大統領へのあいさつ。
 万雷の拍手。会う人ごとに「あの日の人気は藤沢さんが一人でさらったんだよ」と言われたそうです。

 タンゴには素晴らしい(熱狂的?)蒐集家がいてホルヘ・的場さんの自費出版のレコードで嵐子さんのペロン大統領へのあいさつと歌ったスールを聴くことができます。(スペイン・ラテン音楽と共に30年 ホルヘ的場実。S54作成。)
 実は的場さんが来日中のアルゼンチン海軍将校に通訳をしながら嵐子さんとご夫君真平さんがアルゼンチンに行けるよう依頼したとのことです。地球の裏側から頼まれなくともはるばる敗戦国日本への食糧援助に最上等の小麦粉を運んできてくれた昭和21年のことです。まこと、今も昔もさまざまな人がタンゴを通じてアルゼンチンとの交流を続けているのですね。

 このたび8月29日付けの新聞に藤沢嵐子さんの訃報が載っていました。
どのようなご縁か存じませんが郷里新潟県長岡市の病院で8月22日にお亡くなりになられたとのこと。心からご冥福をお祈りいたします。ご主人の早川真平氏とともに日本のタンゴの全盛期をつくり上げたことは誰でもがよく知っていることです。タンゴのprincesa逝く。    H25. 10。



鬼が笑う
 来年のことをいうと鬼が笑うといいますが最近なんとなく納得するものです。
明日のことはわかるものではない。まして1年先のことなぞ。一寸先はヤミなのだと。

 以前、仕事で農家の方と話す機会がたくさんあった頃、苦労するだけで手に余る経営規模だったら縮小したらいい、
その方が気分も楽だし効率的だ、それに儲けはそんなに減るものではないと申しあげたことがあります。
 それがどうやら自分の置かれている立場になったようです。
現在の畑の規模に無理が生じているようです。
 今年の梅雨や長雨、台風にホトホト考えさせられました。
 畑に草が繁茂するのに雨で入ることはできない、耕運もできない、だからといって後日挽回できるほど仕事が進むわけでもない、山の畑、下の畑、さくらんぼの畑どちらも中途半端。全くお手上げでになりました。
 かといって1時間早くおきて、といわれても小生は朝はだらしがないほうなので不可能。
まったく作っている作物が気の毒だ。

 かくして、来年は畑の規模を縮小することにしました。
もっとも、生業としてやっている訳でありませんし自分の趣味みたいなものですから偉そうなものでもないのですが。
 長雨というような予定外の事態に能力が追いつかないということに気付いた訳です。
腹、八分目という言葉があります。余裕をもたせるべきでしょう。
 下の畑(山辺の畑)、これををお返しすることにしました。20アール以上。
毎年堆肥をダンプカーでたくさん入れて土が良くなったことですし石もたくさん拾いましたし景色の良いところなので後ろ髪を引かれる思いは十分ありますがいつかは返さなくてはいけません。今年がそのタイミングと思いました。第二の退職かも。

 そうなりますと、作物も半減しますので直売会参加(女房がメイン)も今のままにはいかないでしょう。
そこは後日となりますがこれからは人のためというより自分のためというようなゆったりした農業を志向することになるでしょう。
"業"という言葉さえ似つかなくなるかも。

 今考えていますのは余裕がでたら山(材木)の山に力を入れられるかな、ということです。
山の隅から隅まで確認してみたい。毎年のように見に行こうと思っていたヤマユリも見に行けるかも。きのこもそこで栽培しよう。
ここにいたアカシに記念になる樹をうえてみよう。ブナかトチかサクラかギンナンか。栗の木も新たに植えてみたい。
でもそれは生産とは無縁のことでしょう。それでも構わない。
 来年のことをいったら、まこと鬼が笑うといいますが何事もなかったらそのようにしたいですね。何事もなかったら。 H25. 11。
    写真は25.11.1の様子。景色のとてもよいところです。


たわけたことを
 今から考えますと降ってわいたような「特定秘密保護法」案。
私のところは朝日新聞ですが各界の著名人が深い忌憂の念を込めて反対の意思表示をされています。まったく誰の発案か聞いてみたい。それも特定秘密かも。
 私も地方公務員だったので県民には聞かされない事案を目にしましたし扱いもしました。けれどそれは一地方の特定のことでしたし大方は上層部が関係の県会議員に説明し全くの隠ぺいということはありませんでした。(と思います。)

 今回の場合は国レベルです。どのような弊害がでるか測り知れません。
まず、官僚は国会議員に特定秘密があったとしても全てを説明しないでしょう。はなから国会議員は信用されていませんから。
 今の国会議員の実力、認識の甘さは見てのとおりです。その証拠に自分だけは別、あらゆる機密情報は今までどおりに来るのだろうと思っているのです。
先生とおだてられていい気なものです。その法案が無くとも騙すのは簡単。なにしろ国会の答弁書は全部官僚が書いているのですから。(県議会も同じ)
 なにより選挙に落ちればただの人です。誰が自分の不都合を正直に教えるものですか。それが法律で保証されるわけですから笑いが止まりません。
そして、それが元で国が危うくなっても誰の責任か40年間公表されない。これほど能天気なことはない。責任を追及したくとも当事者はぬくぬくと死んでいる。

 むかし、呉に亡命した楚の伍子胥は父と兄の復讐に平王の墓をあばき、防湿防腐処理をされ生ける如くであったという、その屍体を地上に転がし、鞭うつこと三百然る後やむ、であったという。父と兄が平王に殺されて16年目のことだった。伍子胥は鞭をふるい、屍体を打ち据えた。史記の伍子胥伝にしるす。酸鼻、正視するに忍びなかったいう。「詳しくは小説十八史略 陳舜臣著。日暮れて道遠しの項」
 死してからも責任は逃れられない。そのくらいの条文を書き加えるべきでしょう。
しかし、それができたとしても日本国やそこに暮らす一億人が元に戻るわけでない。
 誰もがそのくらいの危険性があるということを認識すべきでしょう。

 もうひとつ。安吾さんの「道鏡童子」から。
女帝(孝謙天皇。重祚して称徳天皇)は、法均と清麻呂姉弟を妄語の罪によって神流しにされた。正史はその詔を記載しているが、実に痛烈無類、骨を差すようだ。
「臣下は天皇に仕えるに清らかな心でなければならないのに清麻呂と法均は偽りの神託を復奏した。その時の顔色と表情と発する音声とを見聞すれば、その偽りは明らかだ。(略)」
 安吾さんはいたく感心されます。  
その顔の色と表情をみて発する音声をきけば一目で偽りは明らかだと。
 このように断言できたのはこの女帝が本当に正しいものを愛することのみしか知らなかった珍しい人間の魂の持ち主だったからと述べています。

 私はそのようなものではないのですが国会中継やニュースでみる国会議員を見るにそのような議員は皆無。なにかドス黒いものをもっているのでしょう。
 その顔色と表情と発する音声をきけば一目で・・・・・・。  H25. 12。
  



笑えない
 12月6日深夜参議院本会議にて自公の賛成により特定秘密保護法案は法として成立。忘れてはならない日となりました。
当県選出の参院自民党議員も賛成しました。一人の方は戦争の悲惨さを充分経験されたであろうジェントルマン、もう一人は
今期初当選の初心者的女性、いずれも思慮分別に富む優れた方と思っていましたが期待する方が誤りです。
 恐らく欠陥法とわかっていても所属する自民党の意向により賛成したと思われます。
 (そう思わなければやり切れない。)

  そしてそのように賛成した自公議員は多いと思います。
自分の所属する党とイザコザを起こしたくない、ナミカゼはたたせたくない、それだけで賛成したのだと思います。
 深く悩んだ末のことではないでしょう。これは容易に推定できます。
 人は弱いもの、自分の良心より自分の保身。組織の中にいれば組織の論理でしょう。
東電の原発事故であからさまに見せつけられました。被害者より会社の安泰。官僚の良心より国家の利益。それに各地で発生した有名レストランの偽装表示、その言い訳等々。

 しかし、国民から負託を受けた国会議員にそれはあってはならないこと。議員自身が公的存在でしょう。忘れてはいけない。党より良心に従うべきだったでしょう。
国の将来、孫、子のため真剣に悩むことではないですか。それが一点も見られませんでした。この責任は逃れられない。

 今回の法律がいかに危険かといいますのはたくさんの方が指摘しているとおり秘密が何であるか、具体的にわからないことです。
一般の国会議員は間違いなく蚊帳の外に置かれるでしょう。総理、所管大臣でもその全容は掴みづらくなる。多岐膨大な量になるからです。
官僚(行政)側が隠すのも容易。無いといえばないのですから。
 それに司法警察機関が関与する。運用如何によって容赦なく検挙される。こんなに恐ろしいことはない。今起こらなくても・・・・・・。

 イエ、これを監理する第三者機関が設置されるのではないかといいますが全く無力でしょう。
私事ですが地方公務員にもそういうものがありました。
 宮づかい後期に入った頃発足した制度で、1年間の業務、仕事ぶりを評価してもらうのです。
しかし、身内もしくは関係者による評価でした。私なぞ本当に良かったなといつも思ったものです。事情が分かった人たちですし、予想された指摘だけであって
卒倒するような強烈なものはありませんでした。
 これが利害関係のない全くの第三者であったならこうはいかなかったでしょう。
国の第三者機関をみるにまったくの身内の機関です。内閣府に設置される、これではなんの足しにもなりません。
 他に3件の管理機関を設置するといいますが役に立たないでしょう。まさに事を複雑化させごまかすときのテクニックと言わざるを得ません。行政のスリム化とも逆行する。

 以前、中国で反日暴動が起きたとき、中国指導部は情報操作と隠ぺい工作をしていると色々な方が非難しましたがもはや中国を笑えない。
中国からお前たちだって同じことをやろうとしているではないかと反論される。
 どう考えても次の選挙でこの法律を廃棄すべきです。国際的にも日本の評価はかなり下がったでしょう。  H25. 12。
    



靖国
 昭和天皇はこう申された。「或る時に、A級(戦犯)が合祀され、 (中略) だから私はあれ以来(昭和53年以来)、参拝していない。それが私の心だ」と。1988年の回想。
今次の大戦の責任を痛感し生きてきた昭和天皇の偽ざる気持ちでしょう。
 私はその言葉の中に、天皇の名により戦争を引き起こし天皇の名によりたくさんの若者を戦場に駆り立て戦場で無残な死に方をさせた、誰もいなければ身をよじり泣き叫びたい心があったのだろうと思います。靖国に行ってできる事なら土下座をして謝りたかったのであろうとも推察します。もちろん参拝などという生やさしいことではなかったろうと思います。
 A級戦犯の合祀がどれほど悲しかったことか。昭和天皇に一つだけ政治的発言が許されるならA級戦犯の合祀を撤回せよ、ということだろうと思います。

 そんな昭和天皇の心情にお構いなし。
昨年12月26日に安部総理は靖国参拝。何を考えているのかと言いたい。その談話。
 「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安かれとご冥福をお祈りしました。(略) 愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に (略) 心からの敬意と感謝の念を持って、参拝しました。」

  当時の軍部の言い方そっくりではありませんか。国を国民を戦争に追いやった自分たちの責任はどこに行ったか。
そもそも国の最高責任者として靖国に行くのであれば、当時の国家の指導者の不始末をまずお詫びするのが筋ではないですか。
 行きたくもない戦争に行かして申し訳ない、無残に命を奪って申し訳ない、あなたの家族を悲しませて申し訳ない、この談話のどこを探せばそんな気持ちは出てくるのですか。
英霊だの尊崇の念だの哀悼の誠だのそんな美辞麗句はいらない。
 愛国殉国の教育を施し戦争へ強制的に駆り出し、無駄な死に方をさせ、直接の戦場より極限の飢餓や病気で泥人形のようにバタバタ死んだ兵士が多かったという国家の無能ぶりを謝罪すべきではないですか。

 まったく話しが人ごとなのです。
それができないのは政治的にA級戦犯を祀ったからではありませんか。
 安吾さんは言う、「六十七十の将軍たちが切腹もせず轡(くつわ)を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり・・・(略) 堕落論
一部のひとは天皇の戦争責任回避のためあえて生き恥をさらしたのだといいますが数百万人の命を奪った戦争責任を痛感しているとは思えない。阿南大臣のごとく切腹すべきでしょう。
 そして安部総理なぞはトーキョー裁判は戦勝国側の一方的な裁判であって認めることはできないといっていますが前提となる戦争が残酷で正義や大義とは無縁のものであることを忘れています。勝った方が正義なのです。敗者は勝者によって裁かれるのは当たり前のことです。それが嫌ならはじめからしない方がいい。
 負けた途端、大義を振り回したり、それはおかしいと言ったりするのは非常に甘いと言わざるを得ないのです。裁かれることを甘んじて受けるのが戦争というものでしょう。

 今回のことで中国や韓国のみならずアメリカやロシア、アジアの各国から懸念の声が上がったのも当然のことでしょう。日本の認識の甘さあるいは幼稚さが国際的に露呈してしまったというほかはありません。中国なぞこれ幸いとばかり世界中に日本の歴史認識のなさを吹聴しまくるでしょう。

 一体に今次の悲惨な戦争から70年ほど経過しますが誰が戦争責任を取ったのやら分からないのであります。 H26. 1。


卑怯なこと
 さる2月10日未明、小国川漁協の組合長が自らの命を絶たれました。77歳。まことに悲惨なことであります。
その死に至った原因が県との板挟みによる強い心労とはどうしようもない悲しみをおぼえます。
 失礼ながらそのお年であるなら大半の役職から解放され悠々自適の人生の余生を楽しく送っている頃と思うのですが
それさえ出来なかった無念さに心が痛みます。心からご冥福を祈るばかりです。

 昨年の暮れから心配していました。
10年に1度の漁業権の許可更新に際し県が露骨ないやがらせ(ダム建設を認めさせること)をするのでないかと新聞をみてハラハラしていました。
同じ県の禄をはんだものとして県のやりそうなことだとわかっていたからです。
 結局は県の思うつぼに漁協側は押し切られてしまったのです。「公益に十分配慮する」の文言を取られて。
組合長はそのことに責任を痛感したのでしょう。
 県は色々弁解するでしょうが事実上の強権発動です。漁業権認可という切り札を使って。

 そもそもこのダムの話しがでたのは1991年(平成3年)の赤倉温泉の洪水対策であったと聞いています。
今から20年以上も昔のことです。
 この川、最上小国川は昔から天然アユがのぼって来ることで有名です。シーズンになると全国からたくさんの釣り人がきていました。
そのすじでは地元より県外に知られている河川かもしれません。そして、漁協はアユの生育に深刻な影響がでるとして上流のダムの建設計画に対して反対してきたのです。
 「ダムによらないる治水対策」をと訴えてきました。
昨年までわたしは漁協が2006年(平成18年)の総代会で決議してからすでに8年も経過している訳ですからダム建設の話しは立ち消えと思っていました。
 時々穴あきダムとかなんとかの話は聞こえていましたが。記憶が定かでないのですが民主党の事業仕訳にもでましたかも。
 
 ところが県は何がそうさせるのか知りませんがしつこくあきらめていなかったのですね。
昨年12月に前述の漁協の漁業権更新にあわせ実力行使にでたのです。
 すぐわかりましたよ。その意図が。
県の言うことを聞かないと漁業権更新はむずかしいと漁協の首根っこをつかんだのですね。
精神的に追い詰めたわけです。追い詰めるところまで追いつめてついに「公益に十分配慮する」「の文言を奪い取ったのですね。
 諸氏は意味するところおわかりになりますでしょうか。公益という文言の強さを。県の利益、地域の利益を優先しろ、すなわち自分のことばかり言っていないで
県の言うことを聞けという事なのですよ。
 これは相手の弱みに付け込むやり方ですね。まともな人間のすることでない。卑怯なことです。山形県はその程度かと思うと情けなくなってしまいます。
いずれこのような事件があったことも一人の人間が死んだことも時間の経過とともに忘れ去られダムがつくられる方向にいくかもしれませんが
記憶からは消してはいけないことです。

 一体にその話がでてから10年以上経過していることなのです。当時からの事情も価値観も変わっているでしょう。
本当に必要なことなのか数年間放置して考えても良いのではないでしょうか。少なくとも県は組合長の喪に服すことが必要でしょう。
  最後に上杉謙信公の言葉を吉村知事以下担当幹部に贈ります。
    我は兵にて戦いを決す。塩にて敵を屈せしめることをせじ。
なんとさわやかで颯爽としていることでしょう。    H26. 1。


集団的自衛権
 最近は新聞を広げるのもイヤになります。集団的自衛権というきな臭い言葉の氾濫。挙句の果てに安倍総理は5月15日に一私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する諮問機関」の報告書を受けて内外に「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許される」と表明。そして、閣議決定をし歴代の憲法解釈を変更するという。
 北越戦争で無念の夢を残して散った最後の武士、河井継之助の「戦をしてはならんでや。(司馬遼太郎の「峠」 )」を信条とする小生にとってこれほど不快なことはないのです。
嫌中、嫌韓の世論の広がりにうまく便乗しゴリ押しするつもりでしょうが国と国民を誤らせる以外の何物でもない。日本国憲法第9条は世界に誇れる人類の希望です。時の政府の都合でどうにでもされたらたまりません。それが否定されるならもはや憲法ではない。
 また、限定的にといいますが逆に相手が日本の想定以上に爆弾やミサイルを撃ち込んで報復して来たらどうなるのですか。全面戦争でしょう。相手だって必死です。
自分に都合良く小競り合い、限定的で終わる保証はないのです。実際、歯止めが効かず、支那事変や太平洋戦争の悲惨な泥沼に突き進んだ事実があるではないですか。
 
 集団的自衛権
 他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接攻撃を受けていない第三国が協力して防衛を行う国際上の権利。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある。なお、第三国が集団的自衛権を行使するには、宣戦布告を行い中立国の地位を捨てる必要があり、宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することには戦時国際法上の中立義務違反となる。(出典:フリー百科事典ウィキペディア)

 
 お分かりのとおり、この国際法からも限定的な武力行使であるとはいえ立派な戦争行為ということがわかります。
アベ総理は有事の邦人保護といいますが有事とは戦争であり、すべてが範疇を超えているときであります。認識が甘いのです。
 恐らく、北朝鮮や中国との有事(戦争)を想定していると思いますがそのような時はドカン、ドカンとミサイルや核爆弾が日本に降り注いでいる時であります。
有事になった時点で最早、日本は戦争状態なのです。シリア、パレスチナあるいはアフリカ、ヨーロッパの片田舎で起こっていることとは桁が違っているはずです。
 しかも他国は無関係無傷。戦争をした国だけが没落。意地の張り合いでこんな割の合わないことはないのです。そのうえアメリカは先制攻撃の国。これを忘れてもらっては困ります。まったく世界が危うい方向に行くのを各国が食い止めようとしているとき日本は逆方向に行こうとしています。認識のなさが笑われてしまう。

 今は決して中国の挑発にのらず自重すべきです。あの国は歴史的に見て小競り合いや戦争など何とも思っていないのです。それを限定的とかいって中途半端な対応をとるとかえって付け込まれる危険性が増すはずです。いずれのことでも中途半端は腰の定まらない下策というべきです。その意志があるなら9条放棄を国民に問うべきです。
 でも私は戦をしてはならんでやが信条ですからそれを是としません。外交力強化に専念すること、それが唯一の方策と思います。東南アジア諸国、世界各国と友好、協力関係を強化すること、これ以外にないと思う。集団的自衛権なぞ早々に引っ込めるべきです。
 越後長岡藩が揺れ動く幕末の動乱期に河井継之助のもと藩の方針に掲げたのは
   一藩、兵備をかため、産業をおこし、人心を収束させ、静かに世の治乱を待つのみ。であったという。
まこと、そのようにあってほしいものと思います。H26. 5
  



長岡の花火
 この世で最も美しいもの、私は迷うことなく長岡の花火と答えるでしょう。
郷里N君ご夫妻のご厚意により初日(8/2)の長岡花火を頭上(桟敷席)で見ることがてきました。
 子どもの頃は長岡に行けず近くの田んぼの土手(郷里の。15,6kmほど離れている)で見るのが常で、それはそれで色々な思い出もあるのですがその時より長い年月がたちました。
花火は昔の記憶に残っている以上に豪華絢爛、洗練されていましたが長生橋にかかるナイヤガラ大瀑布も正三尺玉も上げるときにならすサイレンも5,60年昔のままでした。

 それはさておき、長岡花火は見る者の涙を誘うと。まことそのとおり感動で泣けてくるのであります。なぜかわかりません。でもたくさんの方がそういいます。
拙者も不覚にも涙が出たのであります。
 

 あまりにも美しいものが一瞬のうちに輝いては闇に帰るという無常観かもしれません。
それもそうでしょうが長岡花火の原点が平和への祈りと戦災殉難者への慰霊であり、それを嘉瀬煙火工業が損得なしに守り抜いたという気迫がそのまま今の煙火師さんに伝わっているからだと思います。その重圧で煙火師さんが自分の打ち上げた花火に思わず感動し涙をしたと告白するほどに長岡花火(フェニックス)は特別なのだと思います。それが見るものに伝わってくるから泣けるのだと思います。みんなためらわず拍手です。
 頭上から降り注ぐ光の輝き、そして腹の底に染み渡る大音響に至福の一夜を過ごしました。

 2日目(8/3)は実家でテレビ中継と窓から少し見える花火の二本立てで見ていましたがやはりテレビの色は違います。それで兄の情報により家の裏の「巴が丘」に行ってみました。ここに用済みのアスファルト道路の一角があり背景は全く暗く、視界はさえぎるものもなく10数組の人がすでにござを敷いて思い思いの格好でみていました。
 ここからの花火は昔のあの花火です。直近でみる花火には比べようもないのですが闇に浮かんでは消える少し小さい長岡花火でした。
私は手すりにもたれこの新しい観覧所から最後の最後までみていました。

 
 いま切り絵「長岡の花火」を残した山下清画伯のことばを思い出します。「みんなが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりつくっていたら戦争なんかおきなかったんだな
来年もまた見たいと思います。久しぶりの女房孝行でした。   H26. 8   
                                                    当写真は平成26年版長岡市の花火番付の表紙写真です。



ノスタルヒアス
 今のうちに昔話を語ってみたいと思います。長岡花火を見て昔を思い出したからかもしれません。
いえ、それもそうですが片倉製糸、この懐かしい名前が昔を語れといっています。
 
 富岡製糸場が世界文化遺産に登録。(H26. 6/18)
当初、アアそうか程度でしたが新聞を読み返すにつれ目が点になるようでした。
 こんなところに片倉製糸(現在の片倉工業)という言葉をみるとは思いもよりませんでした。
私にとって片倉製糸は過ぎ去った昔、富岡製糸場は社会科で習った近代日本史の一コマと思っていたのですが両方とも健在だったのですネー。
 その片倉製糸が富岡製糸を譲り受けここで50年近く生糸生産を続けていたということです。操業停止後も富岡市に譲渡するまで18年間、保守管理に手を抜かずこの製糸場を守り抜いたという。全く不思議な信念です。翌日の新聞広告の大紙面に片倉工業の最大級の祝賀が載っていましたけれど会社としてもとてもうれしかったことなのでしょう。見事世界遺産に会社の努力が結晶した訳ですから。
 私もなんども読み返し、違う意味でとてもうれしかったです。遠い昔がよみがえってくるようで。

 それで昔話。
 実は我が実家(旧越路町来迎寺)の脇に片倉製糸の工場があったのです(いつから?かなり昔から)。どちらが早かったかはわかりません。そして道路を挟んで向かいが宿舎。
私が父から聞いた話しですとこの地方一帯の繭の集積所でもあり、たくさんの糸紡ぎの職工さんがいたということです。そしてなんと我が家にも間借人が何人かいたそうです。
 とても想像がつかないことです。当時の我が家は周囲に比べてもみすぼらしい家でしたから。しかし、どうも事実のようです。だだぴっろい二階には部屋の間仕切りをした跡が何か所かありました。シーズンになりますとたくさんの繭、白い大きな袋が次から次へと運び込まれて家の前はとても賑やかでした。
 工場の中の支障のないところは黙認で子供等の遊び場です。なかでもお気に入りはボイラー場。繭を煮沸し糸をつむぐためにお湯を送り出すところ。肌寒くなる秋口など赤々と燃える火を暗くなるまで見ているのが好きでした。機械の軽やかな音も記憶に残っています。
 そんなある日、(夏だったと思います)向かいの宿舎から見知らぬ女の人があいさつに来ました。ここに引っ越してきたけど、お父さんかお母さんはいないか、と。かなりアクセントが違っていました。あとからヤマガタという遠いところからから来た人だと教えてもらいました。中学生くらいの男の人と自分より二つ三つ下の女の子がいました。小学校の3,4年の頃でしたか。

 結局、この方は3,4年で別のところに行かれます。と、いいますのもこの製糸場が閉鎖になり取り壊されることになったのです。その方が最後らしかったです。
 そして、その敷地は更地になり、のちの新設中学校の自転車置き場に変わっていきましたがボイラー場脇の大きな煙突だけはかなり後まで、20年近く残っていました。
 このあたりのちょっとした名物にもなりまして父なぞは新聞の取材を受けていましたが昭和40年代後半に撤去になり完全に片倉製糸場の面影は消滅しました。昭和49年と思います。私はここを離れていましたので見ていないことです。
 
 その後、私は大学を卒業し、考えもなしに山形県職員になります。その米沢地方を管轄する地方事務所でのことです。ここでびっくりする経験をしました。入庁3年目のことです。
 あるとき、T町、山あいの酪農家の乳牛の飼育状況の調査に出向いたときです。
お前、言葉がどうもおかしい。こっちの人でないなといわれました。これは山形に来た当初あちこちでいわれたことです。またかと思ったのですが素直にとなりの新潟県ですと答えました。
 オレのおじさんも新潟県にいたことがあるな。どこだ。
長岡というところです。オウ、長岡、知っている。 (長岡は知っている人は結構いました。)
 長岡といっても在のほうで越路町来迎寺というところです。知らないでしょう。 (大抵の人はここまでは知らない。三波春夫先生の出身地であることを自慢したくてここまでいう。)
そうしましたらその方がビックリされまして、おじさんは越路町というところにいたということだ。 片倉製糸に勤めていた。
 今度はこっちがビックリしました。片倉製糸はここしかありません。
官舎に住んでいられた佐藤さんという人ですか。家の向かいに住んでいた人ですか。
 その後、その方は仙台にいることを話してくれたのですがなんとも不思議な気分になったものです。
これが昔話。その変ななまりが山形弁(置賜弁)。そして、一時期隣人であった人がこの町のここの生まれ。そして、自分は意図せず訪ねてきたようなもの。
 片倉製糸。懐かしい名前です。今も当時の情景が夏草の匂いとともによみがえってくるようです。 H26. 8 

 ノスタルヒアス。(Nostalgias)スペイン語で郷愁。アルゼンチンタンゴの名曲。歌詞の方はさておき曲想はとても好きです。
ひょっとして、あの巨大煙突は残っていれば町の産業遺産にもなったかもしれません。史蹟。片倉製糸場跡として。 
  写真は48,9年頃に撮影した往時の勇姿。家の後ろから。空き地が片倉製糸場あと。煙突2/3あたりの建物は来迎寺駅。


来迎寺の栄光
  その一  訂正。繭市場
 あれから急に胸騒ぎがしまして、思い切って長岡市越路支所(旧越路町役場)に電話をしてみました。「越路町史」が入手できるのかどうか。ていねいに対応をしてもらいました。

越路町史のなかで知り得たこと。
 当時の時代背景として、日本の生糸は大正11年に輸出量、輸出額とも最高記録に達し輸出総額の41%を占めるに至ります。生糸は日本の国勢そのものでした。現在の自動車産業以上。富岡製糸場が明治5年に操業を開始してから60年ほどのちのことです。
 往時の来迎寺村も現在の越路町域(昭和30年に近郷の村が合併)の村もこの時期に大きく養蚕業を飛躍させ一大産地となります。一説には蚕を3,4年飼うと家が新築できるとか、出荷するごとに晴れ着が一枚新調できるとか。とにかく養蚕は活況に満ちた花形産業になっていました。

 時代を少しさかのぼりますがこの地域の養蚕は明治17年頃上州を見聞して導入されたものといわれています。富岡製糸の影響もあったのでしょう。それがあっという間に明治末年には全戸数の8割が養蚕をする村も出てくる発展ぶりになりました。
 それがさらに加速し大正8年には近郷近在の養蚕組合がまとまって「来迎寺繭生産組合」を組織します。
来迎寺自体は大きな産地ではなかったのですが北越鉄道の「来迎寺駅(明治31年開業)」の存在がなんといっても大きかったと思います。この地方最大の交通交易の要所になっていました。
 同時に乾繭装置(乾燥機で繭を乾燥させ中のさなぎを殺す装置)を備えた生繭販売場ができます。いわゆる「来迎寺繭市場」です。おびただしい繭が集散されました。これが家の脇にあった繭市場です。
 さらに、昭和4年に価格の暴落対策として「来迎寺製糸工場」が併設されます。女工約30名ほどの小規模なものですがすべてが絶好調。当時の新聞に「ここ当分来迎寺村の一杯屋は沸き返るような景気をみせることであろう(北越新報 昭和4年)」と報道されました。この工場も組合のもの。片倉製糸がつくったものではなかったのです。

やはり調べてみないとわからないものです。
 その施設規模が最高潮になるのが昭和11年。広い郡内5か所に設置されていた繭市場を来迎寺繭市場に統合。来迎寺三島(さんとう)繭市場の出現。県内最大の乾繭機も導入され最大級の処理能力を有したということです。敷地1千坪。建屋547坪。組合員1100人。
 あの巨大煙突は当時の遺構だったのです。
古市軍助という人が請け負い長さ85尺、内径6尺、上部2尺5寸。当地方一の偉観を呈す、と盛大な竣工式とともに新聞に報道されます。
 これが事実。史蹟片倉製糸場跡でなく、史蹟来迎寺三島繭市場跡だったのです。
私の記憶に片倉製糸が残っていたのは、当時、来迎寺駅前に東洋モスリン、日本紡績、片倉製糸、山十組製糸、丸ト組、グンゼなど十社に及ぶ出張所が群居し糸姫募集や繭の買い付けにあたったということですが片倉製糸が最後まで繭市場の閉鎖まで残られていたからだと思います。官舎は家の道路向かい。
 なお、繭市場の(組合の)事務所はこの近辺にはない白いペンキ塗りのきれいな2階建ての建物であったことを記憶しています。
                              当写真は越路町編(2001)越路町史通史編<下巻>P338よりの引用です。

その二 本題。来迎寺の栄光
 越後の人は自分の生まれたところはなんでも日本一だと言いたがるのだそうですがそれを割り引いてお読みください。

 来迎寺村は明治21年では戸数170戸、人口1100人の純小農村だったそうです。越路町史。
そんな小さな村に明治31年、北越鉄道が敷設され来迎寺駅が開業します。来迎寺の栄光はこの時よりはじまります。すべてが北越鉄道からです。
 なぜ来迎寺駅かの話しは非常に面白いのですか省略です。なにせ柏崎から長岡までのルートさえ三案があったといいます。ここに開業できたのは地元に先の読める熱心な誘致者がいたおかげでしょう。しかし、かように繁栄するとは思ってもみなかったのではないでしょうか。それほどの繁栄ぶりです。 

 その前に北越線
 明治19年に長野から県内初の官設鉄道駅(信越線の前身)として直江津駅が開業します。なんで直江津かといいますと中仙道に鉄道を建設するため直江津港から資材を運ぶためであったとか。しかし中仙道線は東海道線にとって変わられ中止。しかし直江津からの鉄道は生きました。明治26年に碓氷峠が開通し高崎まで到達。これで汽車で東京まで行けることになりました。高崎から上野までは日本鉄道に乗り換え。
 同時期に明治政府は直江津から北上し柏崎経由新潟までの鉄道計画を有していたのですが日露戦争の財政難で官設は困難ということで民間にゆだねて建設することとしこれを認可。明治27年のことです。これが北越鉄道線。
 明治29年に着工。31年に全線開通。これで徒歩10日あまりの日数とお金それに重い荷物を背負っての東京行きが来迎寺から汽車に乗るだけで17時間足らずで行けることになったのです。
今の新幹線どころの話しではありません。夢のような話しです。
 のちに北越鉄道は明治40年に国有化され信越線の一部となります。上越線は昭和6年にやっと全線開通。大正10年には上越北線として宮内から越後川口まで伸びていましたが清水トンネルの掘削が行く手を阻んでいました。

 それで来迎寺の栄光
 来迎寺駅が開業するとまず十日町や小千谷の織物の買い付けに東京や大阪方面から呉服商人が続々と繰り込むようになったそうです。これだけでも一大事。
あわせてこの地方の生繭の買い付けと糸姫募集のため十社に及ぶ紡績会社の出張所が駅前にでき駐在員が常駐するということにもなりました。
 また、片貝、小千谷それに十日町、塩沢、湯沢方面の人々(現在の魚沼・上越線沿線の人々)は徒歩や信濃川の川舟で来迎寺に来て乗車。来て一泊。戻ってきて一泊。戻ってきての一泊は私たちも経験があることですがご苦労振りをかねた大宴会。かくて、来迎寺駅前(停車場)は土産屋、菓子屋、一杯屋、それに旅館6軒、料理屋28軒という繁華街になりました。
 芸者さんが48名。夜ごと大変なにぎわいだったそうです。想像がつかないことです。前項で申したように繭の時期には近郷近在の農家の人がどっとくりだしていやはや。
 さらに明治41年には小千谷市の近くに(小粟田原)に高田工兵第13大隊が駐屯することになり大隊の兵士や面会に来る家族も来迎寺駅を利用しさらに賑わいを増したそうです。
 駅前には人力車が200台も集結し客の送迎にあたりました。今のタクシーですね。それに荷物運びの馬車もたくさんいたということです。運送会社が3社ほどあったそうです。大変な活況です。
最盛期は明治末年から大正全期、昭和初年にかけてですが明治44年に魚沼鉄道が開業し来迎寺~小千谷間が開通。
 大正10年には長岡鉄道が開業し来迎寺~西長岡~大河津~寺泊が開通。まさしく、この地方一の交通の要所、物資の集散所となりました。
 この繁栄に陰りがでてきたのはやはり上越線の開業。急速に衰退していったそうです。
あわせて日本が日華事変から太平洋戦争へと呑みこまれていく暗い歴史のなかで来迎寺はかっての栄光を取り戻すことができなかったといいます。
           本写真は平成7年6月越路町発行の広報こしじ363号「町史の窓⑦」からの引用です。 来迎寺名所葉書の一枚(巴館発行)
     
その栄光のエピソード。
 実はこれが言いたくて来迎寺の賑わいを書いたようなものですが
私は昭和23年生まれですから往時のにぎわいは知る由もないのですがある時そのにおいをかいだ、と思うことがあります。
 小学校低学年か入学前のことかもしれません。
家の裏は「巴が丘」といって小高い丘の桜の名所で、そこへの上り口(裏道ですが)となっていました。
 巴が丘には地方の名士高橋家の別荘もあり桜の満開の頃は来迎寺あげての盛大な春祭りが数日間おこなわれました。
忠魂社には神楽舞の奉納が、それに芝居の興行、仮装大会、子どものための宝探し、映画祭り、たくさんの露店がでて近郷からもたくさんのお客です。
 夜は暗闇に一帯がぼんぼりで浮かびあがって別世界のようでした。

 かなり夜の遅い時刻のことです。外が騒がしいのです。
父が対応していましたがそのうちにきれいな着物をきた芸者さんと男の人(一人か二人)ががたがた家の中に入ってきました。
 芸者さんの方はかなり酔っぱらっていました。子どもは見るものでないと離れた部屋に追いやられましたが見ると一番いい部屋の座敷に布団を敷いて芸者さんを寝かしたようなのです。
と、いって寝るわけでもなく泣いているのかかわめいているのか芸者さんの意味不明な言葉がしきりに聞こえてくるのです。それに男の人のなだめているような声も混じってとても子どもは寝られたものではありません。
 そのうちに父が外に出ていきました。
しばらくして戻ってきましたが、見つからなかったとか云っていました。
 その後、どうなったかはわかりません。
朝起きたらその芸者さんも男の人もいませんでした。その夜に帰ったのか朝方帰ったかわかりません。
 その見つからなかったとかいうのは時計のようでした。酔っぱらって坂を下りるとき落としたらしいのです。当時はダイヤモンドのように高価だったのでしょう。泣いたのもよくわかります。そういえば男の人が買ってやるとかしきりに言っていたような記憶があります。
 これだけの話しですが当時芸者さんを連れたお客が結構いたのですね。今は昔の話です。これでなにかすっきりしました。 H26. 10 
 

これとは別にもうひとつ。
 昭和36年に封切られた第二東映映画「故郷は緑なりき」 村山新治監督。主演はデビューしたての佐久間良子。
昭和20年代の信越線、長岡ー柏崎間を汽車通する高校生の純愛物語ということです。駅や改札、乗車、汽車の場面はすべて来迎寺駅です。
 最近思いがけないところで思い出しました。地元の人でリュックサックを背負ってエキストラで出た人は多いと思います。線路がどこまでもまっすぐ伸びているのがいいのだとか、
家に遊びに来ていた人がいっていたのを思い出しました。私はロケがあったことは憶えていましたがロケの現場も映画もみていないのです。ぜひ観たいですね。
   本件は「越路町史」、「広報こしじ平成7年6月第363号町史の窓⑦」、「越後の停車場(1981年朝日新聞社刊)」を参考にさせてもらいました。


これは困った
 つくづく政治の話しは無粋と思いますが我慢をしてお付き合いください。
アベ総理は衆議院を解散するそうです。11月18日表明。最近までそのキザシはなかったのですからびっくりしました。解散する大義理由が見つからないのです。
消費増税先送りの信を問うとか。そんなことをしなくても国民大多数は賛成でしょうに。どうでも良い話しです。 
 しかしビックリしたのは農協関係者、とりわけ農協の頂点に立つ全中の幹部には大激震でしょう。

 10月末(10/30)の日本農業新聞の寄稿欄「万象点描」にこんな記事が載っていました。ジャーナリストIWJ代表岩上安身氏の寄稿。要約します。
自分(岩上氏 )はTPPに批判的であり、従ってこれを進めるアベ政権に対しても批判者である。それをなぜ農協役職員の講演会に講師として呼んだのか。
 担当者の説明。われわれはTPP反対という公約を信じ衆・参両選挙で自民党を支援しアベ政権を誕生させた。ところがその公約は反故にされつつあり、
しかも農政改革で全中解体まで迫られている。
 尽くした揚句、なぜそうなるのか。
その説明を聞いた岩上氏はいまだ自民党を信じていたのかと驚きを禁じ得なかったといいますが
 「聖域」という言葉を使っているがすぐにではないがいずれ関税撤廃というのが自民党の本音であり、
アベ総理にいたってはJAを解体し小規模家族経営農家を消滅させ、農業と農地を大資本に肩代わりさせることを目論んでいると、そのような内容を講演したそうです。
 そしてこの欄の寄稿にこのコラムがいつまで続くかわからないがその間に
一人でも多くの農家の方に自分たちは自分たちを絞首刑にかけようとする者のために、自らロープを編んでいるのだ
、ということを気付いてもらいたいと結んでいます。

 さあ、どうする。今回、TPPは論点から外れていますがこうまで言われてまた自民党を支持するのでしょうか。

 少し前、26年2月17日の同新聞「四季」のコラム欄にこんな話しが載っていました。
私は農業新聞の中でこの小欄「四季」コラムだけがピカイチだと思っていますが
 ちょうど安吾忌でもあったのでそれを踏まえてです。
自民党は公約の中で「TPP断固反対といったことは一度もない」と今更のように強弁するが釈然としないのが農家である。しかし子細に公約を読む限りその通りだ。
 だから「民主党に期待して裏切られ、自民党に期待してだまされた」という声が吹きでる昨今であるが、安吾さんはその心性や農村文化を痛烈に批判する。
「農村で「だまされた」が多用されるのは、自分で責任を負わず受け身だからで、責任回避の弁明である。(「地方文化の確立について)」と。
 そして、安吾さんの言葉を引用し、だまされたなどというみじめな言葉はもう永遠に用済みにしなさい、とコラム氏はていねいにさとします。

 さあ、どうする。
まただまされたというのか。それともだまされたふりをするのか。私は選挙結果よりこちらのほうが気になります。 H26. 11
 


天が怒っている
 最近、小野不由美の「十二国記」という神も妖魔もいる異世界ファンタジー(ホラー?)アニメが面白く何回もDVDを借りてきて見ています。
1991年に発表された同名の小説をNHKがアニメ化し2002年から1年ほど放映したということです。残念ながらテレビを見ていませんので知りませんでした。
 それでこの機会ということであらためて市立図書館から文庫本を借りてきて原作(小説)のほうを読み返していますがこれも面白い。やはり細かい描写は小説が勝ります。
ともあれ、人や文明観、国の在り方を主題にしていますから面白くないはずがありません。
 そのなかのシーン。「月の影 影の海」
 これは、原作(小説)にはなくアニメのなかだけの場面ですが、巧(こう)国で
 半獣の楽俊に命を救われた陽子が楽俊と共に雁(えん)国を目指し旅を開始するのですが宿の入口でランタンが揺れるくらいの小さな地震に会います。
ふとその主人曰く 「天変地異が多いのは国が傾いている証しと言うがね」
 実に衝撃的な言葉です。かくも天変地異が多いのは天帝が怒っているのだと。

 十二国記の世界では天帝は麒麟の選んだ王に国の統治を委託します。国の統治とは民の生活の安心と安寧。しかし、王が国の統治を誤ると天帝はたちまち天変地異(そして妖魔の出没)をもって王に警鐘を鳴らします。残念ながら心に魔を宿した王はそれにより良き治世に立ち返ることはまれとといいますが、その結果を不合理かもしれませんが国民、民が受けなくてはいけないのです。災害が頻発するどん底のなかで民は塗炭の苦しみを味わうことになります。次の新王に期待して。
 これが 天帝の定めた十二国記の世界。
しかし、今の日本にも十分当てはまることだと思います。かくも災害が多いのは。
 天変地異、災害が天帝の警告か科学的な現象かの感想は別として大半は人(政治)が引き起こし、被害を悲惨なものにしているのは間違いのないことです。
 かくも政治の責任は重いのです。その裏にある根本原因は明瞭でしょう。
日本のみならず世界が経済一辺倒に加速していること、その一点です。社会道徳より組織の論理が優先する企業活動、弱い個人をかえりみない成功者(支配者)の論理、同じ労働者階級でも正規と非正規に分ける狡猾さ、生存競争を繰り返してきた人類の宿命ともいえるかもしれませんがとても天帝が望んだ世界ではないでしょう。
 政治がどこかで止めなければいけないものなのです。しかし現状はさらに悪い方向に行く気がしてなりません。世界の潮流がそうだからといって、それに易々のっては日本の良さも日本人の良さも壊れてしまう。私は単純ですが人としての優しさをもっていることと恥を知っていることが日本の良さだと思うのです。

 非正規社員だの格差社会だのは私たちの若いころにはなかったことです。気がつけば子どもの時から今は格差社会。スラム街もできかねません。
このままでは国が傷んでくる。国が傷めば人心もすさむ。人心がすさめばさらに国が荒れる。早く気づくべきでしょう。アベ政権は全く反対のことをしている。国と国民が壊れてしまう。みんながホッと気を抜ける社会こそがが必要なのです。 H27. 3

 昨年の大災害。これに中災害、小災害を加えたら日本地図が真っ黒になる。
   26年2月 関東、山梨の前代未聞の大雪。
    〃 8月 集中豪雨、土砂崩れ。広島市、京都福知山市、兵庫県丹波地方等
    〃 9月 御嶽山大噴火。12月に桜島も。
   そして、7月~10月の立て続けの台風襲来。       



虎嘯の嘆き
 再び十二国記の話です。もう一つ紹介しないことには収まりがつかないように思われます。
やがて雁国にたどり着いた楽俊と陽子は実は陽子が雁国と巧国に挟まれた慶東国の新王、景王だと聞かされます。その時、慶東国には偽王舒栄がたっていましたが陽子は雁国延王の助力によりこれを打ち倒し、慶東国の王となるのでした。「風の万理 黎明の空」
 しかし、登極して目にするのは官僚のすさまじい権力争い、各地の酷吏の跋扈、なかでも民を民とも思わぬけだもの和州候呀峰とその手先止水郷長昇紘の存在でした。やがて、景王陽子は止水郷で同じ年頃の娘、芳国から来た祥瓊と才国から来た鈴に出会い戦いを開始します。
 鈴は病弱の清秀を昇紘に殺され虎嘯と行動をともにしていました。虎嘯は昇紘を誅伐しようとひそかに同志を集め決起の準備をしていたところでした。
 その鈴と虎嘯の会話。
鈴は虎嘯に「あたしには虎嘯の言うことがよくわかる」といいます。私にも良くわかります。
  「……忘れたいのに忘れられねえ嫌なことがある。喜びたいのに喜べねえことがある。俺はそういう状態がしんどくて嫌なんだ。生まれてきた以上は、なんとか気持ちよく生きたいだろう?生まれてきて良かったなあ、と思いたいじゃねえか。けど、昇紘のような連中がいる限り、俺はどうやらそう思えねえ。だからなんとかしたいだけなんだよ

 最近、年のせいで、いえそうではありません。明らかにここ数年いやなことばかりです。TPPにはじまり特定秘密保護法、集団的自衛権やら存立事態とか新事態法とか露骨な九条改正の動きやら原発再稼働の動き、それに民意無視の沖縄の基地問題、将来を失望させる動きばかりです。
 人間の扱いも非正規だの派遣社員だの格差を広げることばかり。人も人でなくなりつつあります。
確かに自動車産業を中心に大企業は好況を呈し株価は上がりましたが大多数の人間には無関係でしょう。これで経済が良くなった、日本の将来はバラ色だと思う人は少ないでしょう。

 根拠のある不安、漠然とした不安、どのような時代になるのか子どもや孫の世代が心配でなりません。九条がありながら中国と軍事的衝突を心配しなくてはいけません。五分五分の高い確率かもしれません。武力攻撃予測事態とか言って戦火を交える準備をしていると言わざるを得ません。
その政治家は腐っています。補助金交付企業団体からの献金を法がありながら知らなかったで済まそうとしています。世も末、恥をしれ、です。
 私とて楽しいことや喜びたいことがないわけではありません。心から喜べない。虎嘯の言うとおりです。

 もう一ついわせてもらいますと二千年間、文明が進んでも人類の頭はなに一つ進歩しなかったということです。敵対といがみ合うことばかりです。
さらに悪いのは槍、刀でなく自動小銃に無人攻撃機、核ミサイル。頭は進歩していないのに殺人武器だけは強力になりました。キチガイに刃物のたとえです。
 なんとか気持ちよく生きたいじゃないですか。   H27. 3


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